放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

暑中見舞いを書く。

とにかく早かった4か月だったため、

北海道から茨城県に引っ越した挨拶状も書くことができず、

結局この時期になってやっとはがきをだすことになる。

しかし、3月にさまざまな方たちの勤務校や住所がわからなくなってしまい、

出したいなと思う人の宛先がわからない状態になっている。

 

なかなかお会いできない方たちには、

このブログから元気に暮らしていることを知ってもらえたらいいな。

 

暑中見舞い申し上げます。2017年8月5日。

自分の書いたものを相対化するためにノートを一覧共有する。

大村はまの単元学習に出会ってから、

ノート指導の在り方について大きく変わった。

 

 そもそも、ノートとは何か。

国語科重要用語事典

国語科重要用語事典

 

 概要をつかむには「事典」。

というわけで、大学院に来てから5種類の国語教育に関する事典を読んでいる。

昨日はたまたま明治図書の重要用語事典を読んだ。

東井義雄の学習帳に関する整理や芦田恵之助による読方科におけるノートの流れがあるらしいことを勉強する。不勉強のため、詳細は割愛する。

ポイントは、大村はまの「学習記録」がワークシートとして位置づけられる点だ。要するに、綴じられたノートかどうかで分けられるようだ。「学習記録」は大村が作成した手引きなど、授業で配付されたものを綴じていく形になる。ノートもワークシートも手製のものになる。

プリント型ノートを使う。

私は既製の縦罫19行のノートを用意させ、それを授業につかっていたのだけれど、改めてノート指導について考え、昨年はノートをコピーして使うことが多くなった。

生徒は授業前にプリントとなっているノートを準備する。

 

なぜそうなったかというと、授業後にノートを提出するためだ。

私の学習記録実践は年を経るにつれて、ポートフォリオにも近づいていったし、ふり返りジャーナルにも似ていった。

とにかく、毎日のようにノートを見る必要があり、返すのが遅くなったり無くなったりしては大変だから、授業終わりにすぐにコピーを取って返却することがルーティーンになった。

そのためには、綴じてある一般的なノートでは時間がかかるため、紙一枚のプリント型ノートを活用していた。プリントといっても、コピーをしただけ、教師が事前に手を加えるようなものではない。お手軽である。

 

書いたものを一覧化する。

コピーしたものは、大抵授業で共有化される。

疑問点や感想に、次の時間触れることがある。

考えを記入した場合は、全体で共有して再考することもある。

ノートにはそれぞれの考えや見方が書かれていくので、それらをB4用紙に8面印刷をかけると32人学級で両面2枚のプリントができる。

全員の書いたものが載るのを見ると、自分の書いたものがどうだったのか内省がおこる。

思わず「こう書けばよかったー」「もう一回書きたいな」なんて声が聞こえる。

十分に書けなかった、時間が足りなかった人も、他の人の書いたものを読んで学ぶことができると思っている。

留意点を挙げるとすれば、ノートが全体で共有されるものであることを事前に伝えておくことだ。共有されることが想定されているのとそうでないのとでは書きぶりが変わってくる。

 

一覧化からわかることをまとめる。

授業づくりの話をしていると収束をどうするのか、という問題を聞くことがある。特に多様な意見が出されるような授業において、後半のまとめ方をどうするかを検討する場面がある。意見が拡散し、もやっとしたまま授業を終えることに抵抗があるのだ。

そこで、個人に最終的なまとめを書かせるにしても、一覧化して共有したことから共通点や重要なことを取り上げて、少し整理してからまとめるといいと私は思っている。

子どもたちは有能で、教師があらかじめ答えを用意しなくても、誰かが重要なことを述べているものである。子どもたちから出てきた言葉をひろい、全体で共有することでこれまでの学習を振り返る。そのためにも、プリント型ノートの活用が有効だと私は実感している。

8月の課題

1、2014年~2017年の学習記録分析。

2、大村はま1973年~1975年の学習記録分析。

3、授業課題

大村はま「読書生活の指導」の一単元のレポート

源氏物語古注釈調査

・詩画教材の指導案作成(協同プロジェクト)

 

修士論文に向けての調査と並行して授業の課題もあり。

少しずつ。

探究。

君の名は。』を見た。

 

公開された時は、あまりの反響の大きさに引き寄せられるように映画館で見た。

周りの情報が多すぎて、夢中になって追い求めるようにして見た。

ストーリーの流れに乗れなかったなと思う。

ぶつ切りに、細かな部分ばかり見ていたように思う。

 

ダウンロード版が出て、今日、また見た。

今度は、今の自分というものが見えてくるようでおもしろかった。

「時間の超越」という一つのテーマが、

実際に「映画公開時期」と「今」との時間を超えてやってくる感じがおもしろかった。

 

作品化するというのは、時間を超えて対話することなのか、なんて思う。

ちょっと作品の影響を受け過ぎだな、と思いながら、

今、私が1970年代の教育実践の記録を読むというのも

何か前に進むために必要なことなのではないか、と思う。

 

こういう根拠のないことはよくないなぁと思いながら、

それでも引き寄せられるように何かに夢中になる。

 

やはり、

探究とは、ただそれだけでおもしろいのである。

授業って「協力」そのもの。

授業って「協力」そのものだなって思います。

学習者の協力なしに授業は成立しません。

 

例えば、学習者が何を知っており、何を知らないのか。

学習者の自己開示なしに、何をどう教えるべきか判断できません。

独演会で終わってしまいます。

独演会でいいんじゃない、という意見があれば、

それはここで話が終わってしまいますけど、

やはり授業は教える側とそれを受ける側の相互のやりとりによって

初めて成立するものではないかと思います。

挙手をする場面にしても、教師の発問に学習者が協力する姿勢がなければ

わかっていようがわかっていまいが挙手はしません。

 

過去の英語の授業で、英語の先生が発問の後、反応のない集団に対して、

「ボランティーア!」と言っていたのを思い出します。

本当に、挙手をして発言することがボランティアの状態だったのです。

発言したからと言って対価を得られるわけではない、ということです。

授業が学習者のモチベーションによって大きく左右される現実は、

授業をしている中で常に持ち合わせていなければならないなと思います。

 

教師一人で創る授業というのはなくて、

学習者の「協力しますよ」「協力したいな」という気持ちがあって

授業は成り立つのだなと思います。

学習者の協力があるのとないとのでは

全く異なるものが生み出されると思います。

 

読書とは何か?なぜ必要か?仕事をしながらいかに読書する?

昨日は東京文京区の林野会館で日本読書学会に参加する。

日本読書学会 - NetCommons学会パック

 

愛知からの帰りだったので少し多動だなぁと内省しつつ、

修士の方たちの発表もある学会なので、ゆっくりとお話を聞けたように思う。

 

読書というと、子どもたちの読書活動を思い浮かべてしまい、学校図書館の運営や多読を促す活動が注目されがちである。

特に絵本の読み聞かせが学級担任をはじめ、学校司書、ボランティアの方たちの手で行われている。何かの記録に残らなくても、裾野は広がっているのではないか。少なくとも、私はそういうコミュニティの中にいる。

 

しかし、最も強く思うのは、教師自身が読書しているか、ということだ。

実際、休み時間に何気なく博士課程の方と「娯楽読書してないですねぇ」という会話になる。

それでもそういう問題意識にあるうちは、自分から気になる本を手にして読もうと思うものだが、その問題意識にすら立たない人もいるだろう。今はテレビ、ネット、SNS…時間があれば楽しめる媒体が多様にある。情報は簡単に手許にある。それを読むだけでも1日は簡単に過ぎ去っていく。それは「読もう」いう意思の持った行為ではなく、ただ単に自分の感覚に入ってくる情報を受け取っているだけの受け身の読書だ。意識して読もうとしない限り、自分から情報と向き合う読書の時間は生まれない。 

 

実際に読書を通して育まれる情緒的・社会的側面など、先行研究にもたくさん触れながら、私は大人自身が働きながら読む読書に関心があるのだな、と思う1日だった。こんな私でさえ「どうやって本を選んでるんですか」「どのくらいのペースで本を読んでるんですか」と、修士院生に聞かれるくらいだから、もう少し言葉を扱う職業にある自分は意識して読書と向き合わなければならない。と、まぁ、最終的には、落ち着くところに落ち着く。

 

ちなみに、昨日の雑談の中で話題になった本があった。 他者と一つの本について語り合えるのは、とても楽しい。そういう教員集団が素敵だなぁと思う。

書くことについて (小学館文庫)

書くことについて (小学館文庫)

 

授業の何を見るか。

言語技術のイメージは、「表現技法」とか「文章構成」とか、

指導事項を明確にしてそれらを授業でどのように扱っていくか、

という議論が展開されるイメージだった。

確かに、議論の中で語句の定義に触れている場面もあった。

 

しかし、最初のインストラクションでも、

「誰の」技術なのか、という問題提起があり、

指導事項が何か、だけではなくて教師の言語技術そのものを問う、

そういう1日だったと思う。

 

そのため、小学生を前にした授業では

子どもたちがどのように言語技術を学ぶか、という視点、

教師が何をどのように問うのか、という視点、両方があったと思う。

 

私は教師が何を見て授業が展開されていったかに興味があった。

目の前で起きることをどう評価し、次にどうしていったのか。

発問と指示、教師と児童のやり取りで進んでいく30分の授業を見ながら

今の私は、声の大きさとか、体の動きとか、

子どもたちの非言語の反応が気になるなと思った。

そして先生がその瞬間どこを見て、

どのように受け止めているのかも知りたかった。