放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

国語教育全国大会とミスチル。

国語教育全国大会が終わりました。

 

初めての参加にも関わらず、

ご縁があって役割をいただいたり、

授業の方にも少しだけ関わらせていただきました。

授業者の先生のためになったとは言えませんが、

私自身は演劇的手法を用いた学習過程について

いくつか考えることができたので参加してよかったと思っています。

 

授業検討会の在り方については、

もう見るものを見てきてしまったので、

違和感を持たずにはいられませんでした。

どうしたらこれだけ大勢の先生方の知恵をフルに生かせるか、

研究協議はどうあるべきなんだろうと、

ずっとそのことばかり考えていました。

 

2日目の夜は日産スタジアムに移動。

小さな希望をいただいてきました。

終わりなき旅

終わりなき旅

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「演じる」をどう位置づけるか。

国語教育系の実践発表を垣間見ていると、

演劇的手法が最近ホットな話題である。

 

ということを、国語教育関係の人とお話しして昨日で3度目だ。

ゲストティーチャーの授業と相まって、

本物の演劇に触れる機会も増えている。

 

ただ、気になるのは、

実際にパフォーマンスをする形でその能力を高める方向と、

演ずることで実感を伴った学びにする方向と、

目的のズレのようなものを感じてしまう。

 

それらは分けずとも、両方が存在するものなのかもしれないが、

何のために演劇的手法を取り入れているのかあいまいな実践を見ると、

ただ単に外から面白そうな手法を持ってきて入れてみただけの教育になってしまう。

それで、やってみたらうまくいかなくて、継続しない…

だからいまいち力がついたのかもわからない…

という、実践の悪循環を生みそうだなと思う。

 

あくまでも私の感覚でしかないが、

演劇的手法は「これならおもしろそうだ」「やってみたい」という空気をいかにつくるかと、

やってみたところで、学び手にどこまで委ねられるか、

創出されたものをどのように受け取るか、

教師のファシリテーターとしての技量も同時にはかられると思う。

 

だから、ホットだけれど「自分が」という感じにならないのだろうか。

「自分が」という人を、私は知らないだけなのだろうか。

 

私は言語化を促す学習過程として演じることを見ている。

演じる中で自分を発見するおもしろさに、演劇的手法の魅力を感じる。

 

暑中見舞いを書く。

とにかく早かった4か月だったため、

北海道から茨城県に引っ越した挨拶状も書くことができず、

結局この時期になってやっとはがきをだすことになる。

しかし、3月にさまざまな方たちの勤務校や住所がわからなくなってしまい、

出したいなと思う人の宛先がわからない状態になっている。

 

なかなかお会いできない方たちには、

このブログから元気に暮らしていることを知ってもらえたらいいな。

 

暑中見舞い申し上げます。2017年8月5日。

自分の書いたものを相対化するためにノートを一覧共有する。

大村はまの単元学習に出会ってから、

ノート指導の在り方について大きく変わった。

 

 そもそも、ノートとは何か。

国語科重要用語事典

国語科重要用語事典

 

 概要をつかむには「事典」。

というわけで、大学院に来てから5種類の国語教育に関する事典を読んでいる。

昨日はたまたま明治図書の重要用語事典を読んだ。

東井義雄の学習帳に関する整理や芦田恵之助による読方科におけるノートの流れがあるらしいことを勉強する。不勉強のため、詳細は割愛する。

ポイントは、大村はまの「学習記録」がワークシートとして位置づけられる点だ。要するに、綴じられたノートかどうかで分けられるようだ。「学習記録」は大村が作成した手引きなど、授業で配付されたものを綴じていく形になる。ノートもワークシートも手製のものになる。

プリント型ノートを使う。

私は既製の縦罫19行のノートを用意させ、それを授業につかっていたのだけれど、改めてノート指導について考え、昨年はノートをコピーして使うことが多くなった。

生徒は授業前にプリントとなっているノートを準備する。

 

なぜそうなったかというと、授業後にノートを提出するためだ。

私の学習記録実践は年を経るにつれて、ポートフォリオにも近づいていったし、ふり返りジャーナルにも似ていった。

とにかく、毎日のようにノートを見る必要があり、返すのが遅くなったり無くなったりしては大変だから、授業終わりにすぐにコピーを取って返却することがルーティーンになった。

そのためには、綴じてある一般的なノートでは時間がかかるため、紙一枚のプリント型ノートを活用していた。プリントといっても、コピーをしただけ、教師が事前に手を加えるようなものではない。お手軽である。

 

書いたものを一覧化する。

コピーしたものは、大抵授業で共有化される。

疑問点や感想に、次の時間触れることがある。

考えを記入した場合は、全体で共有して再考することもある。

ノートにはそれぞれの考えや見方が書かれていくので、それらをB4用紙に8面印刷をかけると32人学級で両面2枚のプリントができる。

全員の書いたものが載るのを見ると、自分の書いたものがどうだったのか内省がおこる。

思わず「こう書けばよかったー」「もう一回書きたいな」なんて声が聞こえる。

十分に書けなかった、時間が足りなかった人も、他の人の書いたものを読んで学ぶことができると思っている。

留意点を挙げるとすれば、ノートが全体で共有されるものであることを事前に伝えておくことだ。共有されることが想定されているのとそうでないのとでは書きぶりが変わってくる。

 

一覧化からわかることをまとめる。

授業づくりの話をしていると収束をどうするのか、という問題を聞くことがある。特に多様な意見が出されるような授業において、後半のまとめ方をどうするかを検討する場面がある。意見が拡散し、もやっとしたまま授業を終えることに抵抗があるのだ。

そこで、個人に最終的なまとめを書かせるにしても、一覧化して共有したことから共通点や重要なことを取り上げて、少し整理してからまとめるといいと私は思っている。

子どもたちは有能で、教師があらかじめ答えを用意しなくても、誰かが重要なことを述べているものである。子どもたちから出てきた言葉をひろい、全体で共有することでこれまでの学習を振り返る。そのためにも、プリント型ノートの活用が有効だと私は実感している。

8月の課題

1、2014年~2017年の学習記録分析。

2、大村はま1973年~1975年の学習記録分析。

3、授業課題

大村はま「読書生活の指導」の一単元のレポート

源氏物語古注釈調査

・詩画教材の指導案作成(協同プロジェクト)

 

修士論文に向けての調査と並行して授業の課題もあり。

少しずつ。

探究。

君の名は。』を見た。

 

公開された時は、あまりの反響の大きさに引き寄せられるように映画館で見た。

周りの情報が多すぎて、夢中になって追い求めるようにして見た。

ストーリーの流れに乗れなかったなと思う。

ぶつ切りに、細かな部分ばかり見ていたように思う。

 

ダウンロード版が出て、今日、また見た。

今度は、今の自分というものが見えてくるようでおもしろかった。

「時間の超越」という一つのテーマが、

実際に「映画公開時期」と「今」との時間を超えてやってくる感じがおもしろかった。

 

作品化するというのは、時間を超えて対話することなのか、なんて思う。

ちょっと作品の影響を受け過ぎだな、と思いながら、

今、私が1970年代の教育実践の記録を読むというのも

何か前に進むために必要なことなのではないか、と思う。

 

こういう根拠のないことはよくないなぁと思いながら、

それでも引き寄せられるように何かに夢中になる。

 

やはり、

探究とは、ただそれだけでおもしろいのである。

授業って「協力」そのもの。

授業って「協力」そのものだなって思います。

学習者の協力なしに授業は成立しません。

 

例えば、学習者が何を知っており、何を知らないのか。

学習者の自己開示なしに、何をどう教えるべきか判断できません。

独演会で終わってしまいます。

独演会でいいんじゃない、という意見があれば、

それはここで話が終わってしまいますけど、

やはり授業は教える側とそれを受ける側の相互のやりとりによって

初めて成立するものではないかと思います。

挙手をする場面にしても、教師の発問に学習者が協力する姿勢がなければ

わかっていようがわかっていまいが挙手はしません。

 

過去の英語の授業で、英語の先生が発問の後、反応のない集団に対して、

「ボランティーア!」と言っていたのを思い出します。

本当に、挙手をして発言することがボランティアの状態だったのです。

発言したからと言って対価を得られるわけではない、ということです。

授業が学習者のモチベーションによって大きく左右される現実は、

授業をしている中で常に持ち合わせていなければならないなと思います。

 

教師一人で創る授業というのはなくて、

学習者の「協力しますよ」「協力したいな」という気持ちがあって

授業は成り立つのだなと思います。

学習者の協力があるのとないとのでは

全く異なるものが生み出されると思います。