放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

今読みたい本から自分の関心を探る。

  ある先生が、授業を「美術や技術のように作業をしながら学べるものにしたい」というようなことをおっしゃっていた。その時、自分の中にも似たような授業の在り方を思い描いていたことに気が付き、腑に落ちる感じがした。

  その後、今年の7月上旬くらいから詩教材の授業を模索するようになり、鑑賞教育の観点から美術の授業の本をいくつか見るようになった。元々私は美術や図画工作の授業が好きだったのもあって、国語の授業と美術の授業のつながっている部分をたどっていくようにして、一つの授業を夢想することがある。その先に行きついたのが次の本だ。

作ることで学ぶ ―Makerを育てる新しい教育のメソッド (Make:Japan Books)

作ることで学ぶ ―Makerを育てる新しい教育のメソッド (Make:Japan Books)

 

 この本で私の関心に引っかかったキーワードは以下の3つである。

   1「試行錯誤(デバッグ)」

   2「教師の在り方」

   3「経験についての話し合い」

 

  「試行錯誤」は私の中で即興演劇や作文の創作活動の経験と結びついてくる。そこでは「やってみる」が重視される。頭の中で考えるだけでなく、やってみることで感覚をつかむのだ。

  この文章を読んでいる人の中にも、子どもたちの学習の前にまずは自分でやってみることを実践している人もいるだろう。自分が体験して、実感してから取り入れる人も多いのではないだろうか。自分でやってみると、どのくらいの時間と労力がかかるのか、どこで発想がわき出るのか、どんなところがこの過程の魅力なのか、どこに改良が必要なのかなど気づくことが多いはずだ。

  もちろん一教師の試行錯誤が40人すべての学習過程に当てはまることはないので、本当のメイキングではそれを超えたことが起こってくるだろう。ただ、私が重視したいのは、教師も学習者も同じ過程を経て作り上げることが大切なのでは、ということだ。「まずは自分がやってみよう」。これが授業を構成する上での想像力を豊かにすることなのではないか、と思っている。

  作るという過程に「試行錯誤」が自然と位置づけられる、そう考えるとこのメソッドが興味深くなってくる。

 

  2つ目は「教師の在り方」だ。

  教師を表す言葉として「専門家」という言葉もずっと考え続けている。自分を見つめ直す時、やはり自分を「先生」と表現することに対して私は違和感を持たざるを得ない。それは、私の中で「先生」が「正しい知識を教示するイメージ」があるからだ。しかしそれだけでは、教師像を表しきれないとも思っている。これも多くの人が感じていることなのではないだろうか。

  本書では「若い人たちとともに作業する教育的立場に立つすべての大人たち」と解釈されている。大人は少し長く生きているだけであり、豊かな創造力を基準に考えると、大人よりもはるかに大きなエネルギーを生み出す力を持っている子どももいると思う。もし、教師の在り方をそこに置くとすると、

その事実にどれだけ自覚的であるか、その過程にどれだけ寄り添うことができるか、過程を妨げることなく併走するにはどうしたらいいのか、そういうことを考えるようになっていくのではないだろうか。

 

  3つ目に「経験についての話し合い」だ。

  私の授業を振り返ってみる。1時間の指導事項があって、知識概念について解説を聞き、実際に演習を加えながら理解を深めるという学習過程がよく見られる。作文を書かせる時は、どちらかというと学習のまとめとして理解ができたかどうかを確かめるために書かせる、というようなことが多かった。ざっくり言うとすると、演繹的学習と言えるかもしれない。その時の「振り返り」は新しくどんなことを学習したのか、が中心になる。

  それに対して、作ることは帰納的学習と位置づけられると考える(現段階では自分の都合の良い文脈に収めているかもしれないが)。すると、一単位時間で学習が完結するようなものではなく、「振り返り」の多くが過程を通過することになる。それで、その間を記述していく、それが「振り返り」になるだろう。

  前者の「振り返り」はある一定の学習内容や到達目標が1時間の間に明確に示される可能性が高い。よって、振り返りの共有はさほど意味はないと思われる。一方で、後者の「振り返り」は過程の記述になるので、作業がどのくらいどのように進んでいるか、その間にどのようなことが起こり、どのようなことに気づいたのか、記述の多様さが起こるはずだ。それを共有することで、自分の作業過程に影響を及ぼすことになり、「振り返り」の共有(話し合い)がこの学習過程では重要になってくると思う。

「振り返り」の在り方も変化することがおもしろいところだ。

 

以上3点に渡って、今日は本の感想…というか、

これまでの自分の関心を巡ってあれこれ書いておく。

現時点での評価考。

評価を知りたいというより、何が良いのかを知りたいと思ってきた。

 

作文一つをとってみても、

  どんな書き出しが魅力的なのか?

  どんな題が読者に読みたいと思わせるのか?

  どんな表現が優れていると言えるのか?

  どんな文章の流れが読みやすいと言えるのか?

自分ではとても言えそうな気がしないので、

誰かと、時には中学生と、いい文章ってなんやろな?って考えてきた。

でもまだまだ足りない、それが現状である。

 

大村はま学習記録の評価表が前からずっと気になっていて、

そこには大村はまが考えた「いい文章とは」の答えが書かれている。

3年間だけを読んでも、それはそう簡単に分類はできないほど

細分化されていて、細かに要点を「指導」する。

 

大村はま文庫には芦田恵之助の本も大量にあって、

今回縁あって範文をいくつか読むことができた。

やはり、と思うくらいに、きっと子供たちにとって

芦田先生の文章はそれがそれ自体に魅力的だったと思う。

「自分もこんな文章が書きたい」と思うような文章に出会うことが

人の書くことを促進していると実感する。

 

こういう文章を書きたいな、と思うこと、

その要素を書き出してみること、

そこから評価の目は始まるのかな、と思う。

 

もっと対等に話し合える場を、と言うけれど。

公開授業の事後検討の場に対する問題意識を持っている先生方は多いと思う。

 

議論が表面的な一問一答ばかりで、授業の核心をつかない。

一部の人だけの議論に終始してしまう。

肝心の学習者の姿に話が及ばない。

授業者の先生の中に思考の深まりが起こらない。

 

さまざまな現象と要因があるだろう。

 

特に聞くのは、指定討論者や助言者の立ち位置の問題である。

指定討論者によって解答を披瀝するような時間に対して反発は強いように思う。

もっと参加者全員が見方や考え方を持っているのだから、

それらを引き出してよりよいアイディアに練り直すことができないか。

そういう事後検討のあり方を考える人は多いと思う。

 

しかし、対等な関係性での質疑応答だけの場合、

授業者(提案者)や参加者の疑問のアウトプットはできるかもしれないが、

「それで、どうしたらいいと思う?」という次のアクションに

つながらないことも多いのではないか。

 

ある事柄に対して持っている情報量が人によって違うということは事実だ。

情報量が多ければ、さまざまな観点からの見方ができる。

問題は、一定の価値観・考え方を持った1人の人が発言を繰り返すことではないか。

また、ある価値観において考え方が異なる時に、耳を塞いでしまうことではないか。

 

複数の発言者の時間を持ち、いくつかの視点を場に投じる。

すると、そのうちのどの意見に近いなど、自分の立場があきらかになってくる。

そして提案の引き出しが多ければ多いほど、よりよい選択の余地が生まれる。

「なくせばいい」という問題ではなく、問題の共有をはかりながら、

専門家として持っているアイディアをそこにいる参加者の見えていない領域を見定めながら

提示できることが大切なのではないかと思う。

昭和47年度学習記録調査(1年生)

9時から16時まで学習記録閲覧室で学習記録を読む。

 

・授業内容を書く学習記録と、振り返りを書く学習日記に分けられている。(おそらくこのあとフォーマットが変化する)。

 

・1年生の初回の学習記録編集はまだ見通しが持てていない生徒が多く、ページが時系列にならない。あとがきも反省色の強い記述が多い(当然といえば当然だが)。

 

・「私の作品」というタイトルが見られ、すでに研究がなされているように、ポートフォリオ要素もすでに見られる。

 

・グループ発表、相互コメント評価など、協同学習の授業が1年生の1学期から見られる。

 

・3学期は新1年生への学校紹介文集制作がメイン。てびきが少なくなる。

 

今日は昭和48年度学習記録の調査。

鳴門へ。

2日間の着想論文検討会を終え、

ひと夏の思い出を作りながら、

今週は徳島空港に飛ぶ。

鳴門教育大の大村はま文庫に入るためだ。

 

昨日は移動日だけで、

すだちがたくさん並ぶスーパーの食材コーナーや、

渡船で移動する人々を新鮮な気持ちで見る。

書くために考え、考えるために書く。

修士論文の構想検討会1日目終了。

共通する課題は、「提案に終わらないこと」だった。

研究論文に挑戦するのだから、説得力ある論を立てたいと思う。

そのためには、自己満足の空想発表会にしたくない。

論文の先に「あなた」がいて、

「あなた」も一緒に考え入るような、

そんな修士論文にしたい。

幸いにして、わたしたちには一緒に検討するチームがあって、

自分ひとりよがりな考えに留まってはいられない厳しさもある。

その先の発見を楽しみにしている自分がいる。

そう簡単でもなく、美しくもなく、

嘆いたり、弱音を吐いたり、愚痴ったりもする。

そうやってもがきながら、

どんなに時間を注いだって見えないものは見えないのだけれど、

それでも何かを創り出そうと、

誰かを唸らせようと、

小さな火を燃やしながら、

毎日を論文と共に過ごす生活は

私にとって何よりも尊いもののような気がする。

現在、カオス圏に突入中。

修士論文の着想論文検討会にあたって、

論文の問いを立てるために先行研究を読んでいます。

私の場合は、「学習記録」という調査資料が先にあって、

そのデータからどんなことが言えるのか書くことになります。

よって資料の調査に時間を置くことになります。

 

しかし、調査といっても様々なアプローチがあるわけで、

なかなかオリジナルの方法を見つけるのは難しいでしょう。

そこで自分と似たようなことをしている先行研究を探すことになります。

研究の方法を探っているのが現状です。

 

学習記録に関する先行研究の収集をしていくと

「ノート指導」とか、

ポートフォリオ評価」とか、

「カリキュラム」とか……

いくつかの問題点に分類されることがわかってきます。

 

そこで、はたと気づくのですが、

自分はどれにも興味がある、

ということです……。

拡散をたどる一方。まさにカオス……。

 

 

問題点の焦点化が今後の課題であり、

そのためにも資料一つ一つをいろいろな方法で読んでいくことが

必要になってくるのだなと思います。

 

頭ではわかっていたけれど、

実際にやってみるとそう簡単ではないなと、実感中です。