放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

単元のどこに重点をおくか構想する

単元「ことばの意味と使い方」とは

今週の大村はま読書生活の指導の演習は、単元「ことばの意味と使い方」だった。昭和47年1年生3学期の単元である。

いくつかのことばに対して用例を作成し、グループでその使われ方について検討し合う単元である。大村はこの単元を討議のための初期指導として位置づけている。

実際にこの単元が討議の初期指導としてふさわしかったのかどうかは、正直今回見た資料だけでは判断しきれなかった。そもそもここで言う「討議」とは何か、「話し合い」と言った時とどのような関係性にあるのか、根本的なところからの検討となった。

 

「これ、国語なんですか」

話すこと・聞くこと領域の「話し合い」を指導する際に、話し合いのテーマが論点としてあがる。そしてその先に必ず出てくる質問は「これ、国語なんですか」である。これはほとんど批判に近い問いだ。

この問いは教科ごとに分ける視点で授業を捉えるために生まれるのだと思う。国語科の授業では国語科の目標が設定されており、授業の目的がどこに置かれているか判別される。ここは教師によって見方・考え方が分かれる部分である。

 

テーマ設定のレベルを分ける

ちなみに、テーマのレベルを3つに分けると、①教科の性質に近いもの(国語科でしか扱わないもの)、②学校教育(授業)に関するもの、③社会生活に関するものに分けられるだろう。今回の単元は①で、ことばをテーマに扱っているので、討議の初期指導の意味づけが強いとはいえ討議内容自体が国語科の言語事項を扱うことになる。

一方で、そもそも話し合う行為はよりよい社会生活を創造していくためにするものなのだから、学習者の生活に即したテーマを扱うべき、という考え方もある。ここには教師の教育理念や学習者観、その授業をする際の時代性などが影響してくる。それで、授業検討ではただの対立関係が形成されて、深めることができなくなる事態が、たまに、起こる。

 

授業の位置付けを意識しているか

問題は授業をしている時に何を目的としているか、それをどの程度意識しているか、である。大村は前述した通り、今回の単元について「討議の初期指導」としてこの授業を捉えているわけだから、討議の仕方を指導する意味合いが強い。手引きも台本のようにより具体的なものを提示する。討議の材料そのものも国語科の教科特性に即したものだが、記録を読むと位置づけがよくわかる。

 

今回もう一つ興味深い発見は、授業のまとめが記録として残されていないことだった。ただ単に残りの時数を考えると収束している時間がなかった、と言ってしまえばそれまでだが、収束をすることなく次の単元に入っていくとどのようなことが起こるだろうか。私は、討議を「経験させること」も重視していると想像した。今回の単元はあくまでも通過点で、この学習を活かして次の学習へと進むイメージが見える。どこに重きをおくか構想することに意味があるのではないか、と学ぶ。

 

 

点数至上主義の学習観〜「あとがき集」分析から

あとがき集とは何か

 

大村はま学習記録では、学期の終わりに学習記録を編集する(学習したプリント類を綴じる)。この作業の中であとがきを書く。あとがきと命名されるものの、実際の内容は学期の授業のまとめである。学習記録実践をしていなくても、ポートフォリオで言えば凝縮ポートフォリオのように学習のまとめを1枚にまとめるような実践はあるだろうし、授業評価として感想文を書く活動もあるだろう。とにかく、学習記録ではその学期の学習で印象に残ったことや学んだことをあとがきとしてまとめる。あとがき集は一人一人のあとがきを文集としてまとめたものだ。

 

学期が終わって残るものは多様である

 

30名の学級であれば、当然ながら多様なあとがきが残される。印象に残った単元が同じものでも、そこから何を学ぶか、どの活動、誰のどんな発言が生徒にとって重要になるのかは全く異なる。自分はあまりやる気がなかった、やっぱり国語は嫌いだなど、ネガティブな記述もあれば、伏線の見方を学習して普段の読書の見方が変わったなど大きな変容が見られることもある。

 

振り返るための観点の乏しさか?学習観のズレか?

 

私は自実践のあとがきを読んでいて違和感を持つことがある。「今回のテストはあまりいい点数ではなかったから、次は頑張りたい」という記述である。この記述を見た時に私が思うのは次のようなことだ。

 

1 授業がテスト重視のものになっている?(確かに漢字テストとか定期的に行なっているものがあり、定期テスト前もテスト対策授業を行なっている)

2  さまざまな単元に対して積極的な(印象に残るような)取り組みができなかった?

3  テストは数値化されて自分の成果が見えるものなので記述しやすい?

 

1に関しては、教師の授業理念がどのように学習者に受け止められているかが見える。

2に関しては、1と重なる部分がありつつも、主として学習者の授業への意識が見える。

3に関しては、そもそも記述の観点の選択肢がなく、書きやすい記述に頼った可能性が見える。これに関しては、他者のあとがきを読んだり、複数回のあとがきの記述を繰り返したりすると変容する。

 

ここで言いたいのは、国語科授業の目標としてよりよくある姿がどのようなものなのか、あとがきから見えることである。授業のあり方、日頃自分が授業内で言っていることがあとがきの記述に反映される。そのため、教師の内省を促すものになっている。今回の例では、点数至上主義の学習観に対してのネガティブな見方を認識するとともに、学習者とのズレを確認した。そして、そこから次の授業をどう構想しようかという思考が始まっていく。

 

留意すべきはこのあとがきを学習者の学習状況や前後の過程と一緒に見るということだが、数十時間の授業を経て書かれたものを分析するということは、自分でも意識していなかった授業の実態を知る契機となるのである。

質的研究法を勉強する

 方法知を学ぶ

 昨日は定例の修士論文執筆グループによる進捗報告を行った。なんだかんだと始めて1か月。どの論文も指導の中で「自分を持つ」ことがキーワードとして挙がった。まだまだ研究の目的が抽象的でポイントの定まらない状況である。よりシャープに研究の目的を置かなければ、この先の先行研究収集や方法論の設定に振り回されることになる。

 一方で、自分の研究目的を熟考しつつ、研究を明らかにするためにどのような方法があるのかを知らなければならない。今回はいくつか先行研究を追っていく中で出会った「グラウンデッド・セオリー・アプローチ」の本を読むことに決めた。

グラウンデッド・セオリー・アプローチの実践―質的研究への誘い

グラウンデッド・セオリー・アプローチの実践―質的研究への誘い

 
ライブ講義M-GTA 実践的質的研究法 修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチのすべて

ライブ講義M-GTA 実践的質的研究法 修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチのすべて

 

 まだ数ページしか読んでいないけれど、あとがきに「修士論文の課題があるときには少なくともその1年前に集中して学んでほしい」とあって、「今でしょ!」(古っ)という気持ちになった。鉄は熱いうちに打つ。

 他にもいくつか読みたい本がある。

教育研究のための質的研究法講座

教育研究のための質的研究法講座

 
混合研究法への誘い─質的・量的研究を統合する新しい実践研究アプローチ

混合研究法への誘い─質的・量的研究を統合する新しい実践研究アプローチ

 
質的研究をめぐる10のキークエスチョン: サンデロウスキー論文に学ぶ

質的研究をめぐる10のキークエスチョン: サンデロウスキー論文に学ぶ

 

 こうしてみると11月上旬にかけての課題は質的研究についての考察をまとめることになるのかなと思う。

方法から考える関心

 確かに、私は生徒の記述内容に関してどのように読むのかを知りたいと思っている。振り返りの記述にどのようなレベルのものがあり、どこを目指すのか、どんな記述があることで意味が生成されるのか。方法は目的とセットであり、どんな方法に関心があるかということから自分の研究に向かっていくアプローチも「あり」と思った。

ストイックへの憧れ~国立新美術館「安藤忠雄展:挑戦」

「挑戦」し続ける

「時を重ねるほどに感謝の思いが募る一方で、彼らもまた住みこなすことに挑戦せねばならない。」

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 安藤忠雄の原点として紹介された大阪の住吉の長屋に関する文章である。住吉の長屋は都市の空気を家に取り入れるかのように中庭が作られ、生活はその空間によって分断される。簡単に言うと、「住みにくい」。

 しかし、そもそも住まいとはそのようなものだったのではないか、と考えさせられる。さまざまな不便さを抱えながら、生活の知恵を使って人間はよりよく住もうとしてきた。また、利便性を求めすぎず、どこかではいい意味で諦めながら暮らしてきた。安藤建築を見ながら、わがままになっている自分を見る。「挑戦」というテーマに対して、まだまだもっと何かできるだろうと自分に問いかける。

東京で北海道に出会う

 今回の展覧会参加の動機は、8月に行った直島プロジェクトに心が動かされたからだ。なぜあのようなプロジェクトを進めることができたのか、なぜどこにもない、記憶に残る建築を創りだすことができるのか、さまざまな興味が湧いた。

 もちろん直島に関するインスタレーションも素敵だったけれど、それ以外の作品も興味深く見た。特に意外だったのは、何気なく過ごしていた北海道の建築物に東京で出会う、という体験だ。なんとも言い難い思いがした。

「頑張れ」に対して思いを巡らす

 作品展のテーマ「挑戦」は作品の展示方法によく見られたと思う。建築の展覧会というのは、見せ方がとても難しい。だって創ったのは建物なのだから、まさか美術館に建物を集めるわけにいかない。そのため、設計図やタブレットによる動画が展示のメインになる。かの有名な「光の教会」だけは、特設で野外に作られ、あの光の圧倒さを疑似体験できるようになっている。

 ただ、私が最も注目したのは模型である。特に後半に行けばいくほど、大規模で精密な模型造りが展示されていることに驚く。その模型は今回の展覧会のためにわざわざ作られたものがあって、特に建築科の学生が協力して作成されたものもいくつかあった。作成過程を定点カメラで記録し、その様子も展示されているわけだが、あの1つ1つの根気のいる作業を思うと、「ああ、これめっちゃ頑張ったんだな…」という思いになる。

 安藤忠雄曰く、建築を創りだす時に大切にしているのは「見た人の記憶に残ること」らしい。そのためには、がんばらなきゃいけない時もある。町を知り、人を知り、そこからアイディアを絞り出し、限られた制約の中でデザインをする。批評家の浅田彰は「ストア派建築」と評するわけだが、その批評に納得せざるを得ない。

 一方で、今の社会に「頑張れ」至上主義が合わないことは、多くの人が思っていることだと思う。頑張ってもどうしようもないことが現実にはあり、頑張ることによって悪循環を生むことがある事実を目の当たりにしている。頑張らずしていかに自分の目的を成し遂げるか、そのことの方が重要な節がある。そして、さまざまなSNSの日常のつぶやきからも、「頑張らないように頑張る」といった、自分を制御する言葉を目にする。私自身も実際にそうつぶやく。

 その上で、安藤展を振り返って改めて思うのは、「頑張る」か「頑張らない」かのどちらかなのではない、ということだ。何かを成し遂げたいという欲望は誰にでもあるもので、それがどこから湧き出て、どのようにそれを自分がとり出すかなのだと思う。

 つまり、自分の外側から刺激されて行動しているのか、自分の内側から湧き出るものがあって行動しているのか、そのことを意識できるのかどうかの違いなのだと思う。

 もちろん外側からの刺激によって内側が変わることもあるだろう。しかし、元々自分の内側にあるものを、自分のルーツやこだわり、夢中になれるもの、立ち位置等から見つめることによって、頑張らずして自分の成し遂げたいことに近づくのではないか。

 安藤展を思い出しながら、「頑張る」ことについて今も考え続けている。

集団において教師の役割は何か。

そうなんだ?こういうところが〇〇と似ていて、こういうところが違っているね。

 

〇〇はこう思ってるんだよね。他の人はどうなのかな?聞いてみよっか。

 

学級担任をしていて、ある先生に「交通整備すること」を教わる。

オーライオーライ!、の時もあれば、

すいませんしばらくお待ちください、の時もある。

それぞれに進みたい道はあるけれど、教室はそんなに広くはない。みんなが勝手に動けば事故が起こるのは当然で、立ち止まって道を譲り合ったり、先に進めたり、そういう判断を日々していくことになる。

信号のようなみんなが信頼して守られるルールがあれば、交通整備の人はいらない。そもそも目と目で合図してどちらが先に行くかコミュニケーションできたらそれに越したことはない。

 

ただ時折信号が壊れることもあるし、新しい工事に着手しなければならないこともある。譲ったつもりがそうではなかったと、間違いが起こることもある。

 

そんな時、一人一人がどう行動したいのかを聞くこと、まずはそこに尽きると思う。その上で全体の調整をかけることが担任の役割なのではないかと思う。

 

無意識にしていることを言語化する。

今日は書くことの評価に関する論文を読みました。

生徒の作文をどのような内容だと判断し、

どのように評価をするのか、

そこから見える傾向は何か、

こんな論文でした。

 

忙しい日常では作文添削に時間をかければかけるほど自分の睡眠時間が削られます。

生徒に書かせるのはいいけれど、何がどうなのか言語化してフィードバックすることはなかなか大変な労力です。

だから、作文評価の曖昧さが生まれます。

曖昧さを埋めようと、スキルを明示したり、具体的な目標を与えたりします。

それでもやはり、無意識に評価を行なっている場面もあります。

 

今日の論文を読んでいると、教育実践の論文執筆は、普段無意識に行われていることにスポットを当て、言語化を試みる作業なのではないか、とわたしは思いました。

 

今日の気づきでした。

 

 

体験しながら気づく。

昨日は大村はま昭和47年11月、単元「国語学習発表会」についての分析と考察を聞く日でした。

 

秋学期の木曜2限は大村はまの読書生活に関する交流の場について検討していきます。受講者がいくつかの単元を担当し、それぞれが発表する演習形式です。

国語学習発表会」は1学期からかけてさまざまな学習を総まとめにした計47時間の壮大な単元です。時間的な制約は今の学校教育に当てはまらないのは当然ですけれど、それを抜きにしても授業を考えるにあたってさまざまに議論すべき点があがってきます。

 

例えば、昨日1つ目に挙げられたのはグループ編成でした。

この単元では1クラスを4つに分けるのですが、その分け方は等質グループではないわけです。

男女は均等に分けられますが、必ずしもリーダー格となる生徒がグループにいるわけではないのです。

 

この発表を聞きながら、自分のグループ編成を考えると、ランダムが多いと振り返りました。

これは学級経営とも関連していて、席替えを頻繁に行なっていたものですから、座席で近くなった者同士がグループを編成するわけです。

ねらいはどんな人と同じ組織で働くことになっても、自分の立ち位置を調整しながら協同的に参加できる力を育てたいという願いでした。

ただ、それが本当に授業として力をつけるシステムなのか、今回再考する場面がありました。

 

全集2巻も初めて読んだわけではないのですが、やはりこうして発表を聞いて議論をする中で、改めて自分の見方考え方にまだまだ余白がたくさんあるのだなと思い知りました。

もう一度一から読み直したい気持ちになって、夢中になって全集を読み直す1日でした。