2015年度に自分が書いた記録を読み返した。記録に対する認識の変化が大きく表れた1年だった。私はずいぶんといい授業がしたい、と思っていたようで、一番学習記録実践として充実していたように思う。学習記録に関する認識の言語化が多くなり、「自分が自分の先生になる」とか、学習記録を何のために作るのかをずっと考えていた記述が目立つ。実践に関する他者との対話も自分を変えるきっかけだったと思う。学習記録実践を通して、自分自身の実践のあり方が一つ定まっていく。そんなプロセスが見えてきた。
ひとりの作業と共同作業と
読みの研究の全体像を知ろうとするが、そう簡単にできるものでもなく、なかなか思うようには進まない。
今日は誰かと一緒の活動の方が作業が捗る1日だった。来週の中国文学演習に向けて資料探しをする。
書き溜めて、読み直して、編集する
今週に入って、読書教育論の課題と、これまでの研究のまとめ、共同研究のワークシート分析の修正、以上3本立てになる。
読書教育論の課題は「読む」とはどのようなプロセスかを考える契機になっている。これまでの学びの中で同じ国語教育にもさまざまな読みのアプローチがあることを知った。どれがよいとか、どれが不十分であるかは言えないと思っていて、それぞれの見方を獲得することで新たな発見があるのだと思っている。見聞きしただけの情報もたくさんあるので、一から学び直すことができて貴重な時間だなと思う。
修士論文の研究については、「実践の事実」「実践最中の記録」「実践後の考察」の3つに書き分ける形で進める。実感ベースで書き始めると自分でもしっくりくる感じで作業が進むようになってきた。書き溜めて、読み直して、編集する。この作業が大切なんだな、と今は思っている。
研究を楽しみたい。
「今日の学びはなんだろう」と考える
今月は2回、修士論文指導の先生に面談の時間をもらう。機会を作らないと作業を進めることができないので、ぐずぐずな進捗状況でも現状をそのまま持っていく。さすがに今日は作業時間が足りなさすぎて申し訳ない気持ちになるが、ここから2月の見通しが立って、夕方から章立ての見直しと過去の調査報告の修正点を直す。
章立てを考えながら、題名や目次を考えることが一番むずかしいのだと感じる。何気なく国語科学習記録の「題名」と「目次」を考える授業をしてきたが、全体の認識が見えないうちは、名付けることも分類することもできないのだな、と知る。
あと、もう一つ実感するのは、学習記録を読んだり書いたりするようになって「今日の学びはなんだろう」と考えるクセがついたことだ。
このくらい量を重ねると見えてくることがあるのだな、と思う。
過去3年間の自分の記録を読む
「学習記録を見る目」というテーマで、過去3年間に書いたものを並べてみる。読み直して、自分は何に着目していたのか、ということを振り返ってみる。人との出会いや出来事によって実践に対する見方が変わっているポイントをいくつか実感する。記録を残していると、いつどんなことを考えていたのか、ということが見えてくる。自分の考え方の癖も見えてくる。自分の営みを振り返る時間がとても大切なことに思える。
そして、読みながら考えている。記録をすることはなぜ大切なのか、いったい記録をすることでどんなことが起こるのか、どんな記録であれば自分の成長につながるのか、次の行動を生み出す振り返りとはどのようなものなのか……今はこのようなことを考えている。
どこに軸をおいて授業を考えるか
初等国語の集中講義。
小学校の古典教育で古典嫌いを少しでも減らすためにどんなことができるだろうか、という問い。
ほとんどの人が小学校での授業のイメージがなかった。
中学校ではとにかく暗唱させられるイメージだった。
高校ではとにかく文法を覚えるイメージだった。
積極的に好きと言えない、古典。
学習者の立場に立つと、教師として安定的に生活することに軸があったことに気づく。
今日は自己弁護をするように自分のことを振り返る機会が多かった。