放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

授業復元のためのデータ

他者と共有するために授業のデータを残そう、という話。

 

大学院に入って、当然のことながら論文を読む機会が増えた。

中学校で授業をしている時は、毎時間の板書の写真、発話の録音、授業風景の動画、生徒が書いたもののコピー…さまざまな記録を残してきた。

それでも、やはり論文を書くには足りないと思う。特に、音声データがないと思う。

学習記録の記述内容を読んでいて、明らかに教師や級友が発言した内容が記述内容に影響を及ぼしたと思われる部分が見られるが、そのデータがない、と思うことがある。

授業をしている時は重視していなかったからだろう。

大体、音声データはたくさん残しても記録として見直す時間がない。とにかく、明日の授業を含めて、日々毎日やることがいっぱいだった。実際、発話の文字起こしは時間がかかって「やろう」と思っても実際にはできずに終わることが多い。

そもそも、授業記録を書くにあたってどれだけのデータが必要かということも、考えてなかったのだと思う。今こうして授業を研究対象にすることが目的となっているからそうしたデータが必要になるが、そうでなければ必要性を感じることもなかったのだろうなと思う。

できるだけ多くのデータを集めること、研究を主としている人にとっては当たり前なことなのかもしれない。しかし、明日の授業をどうしようと考えている自分には実感としてなかったことだった。

 

 

森美術館「レアンドロ・エルリッヒ展:見ることのリアル」

体験型インスタレーションで構成されており、最近では珍しくなくなった撮影可、インスタシェア可の展示。見る行為をさまざまに映し出す。

 

《反射する港》

例えば水の上にゆれている舟。

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実際には水などなく、機械的に動いているだけである。しかし、見た人は、自分が一度見た風景と重ね合わせて「きっとあれと同じだな」と思い込んでしまう。

 

《建物》

鏡を使った展示も多く、鏡の中に写り込んで撮影する。

パンフレットの写真にも使われている《建物》では、壁面に寝転がって撮影をする。どこにどんな姿勢で寝転ぶか試行錯誤する。体験後に展示風景の写真を見て、「こんな風に足を広げるとおもしろいね」と振り返りたくなる。誰も目指す方向を示していないのに、体験者は自然と意外性の高い写真を撮ろうとする。「驚き=おもしろさ」の体験をする。

 

見て認識した情報との違和感に驚くことは、トリックアート展で感じる印象に近い。すぐにその違和感との調整をはかろうとする自分に気づいた時、認識にゆさぶりをかけるアート作品との出会いが日常になりつつあることを感じる。

遊戯空間 詩×劇2018 『つぶやきと叫びー礫による礫ふたたびー』

テキスト・和合亮一、演出・篠本賢一、於:新宿区立新宿文化センター。

 

当日券で滑り込むも、満員御礼。

椅子席の前に座布団に座って見る人がいるくらいだ。

ことばの力、声の力に圧倒される。

特に、「書いても書いても何も書けていない」というのが印象に残る。

ことばが、あの時、あの瞬間を表現するものでありながら、ことばでは到底表現することができないこともあり、それでも、やはり書き続けなければ何も残らないのだと、ぐるぐると思って、帰ってくる。

記録のまとめはいつするのか

日々の記録を、ある程度の蓄積を持って一度まとめる機会を持つ。そのタイミングはいつがよいのだろうか。

ある程度の厚み(量)が必要だと考える。学校のスケジュールで言えば、前期・後期で分けて年に2回実施するのがいいのだろうか。一定の評価時期である学期ごと、年3回実施するのがいいのだろうか。

次の行動につながることが重要だと思う。そう考えると、学期の後ろよりも頭に持ってくる案も浮かんでくる。

振り返りのタイミングはいつがベストなのか。自分の体験も含めて考えている。

学習記録を通して見える力

今年度最後の授業参観。自然と1年間を通じて学習者がどのように成長し、どのような課題があるのかという視点になる。学習記録のことで言えば、記録の質についてどのような違いが生まれているのか考える。

「何を書くか」ということがわかっても、それを表現する語彙や文体がないと書けない。書く力があったとしても、物事を見つめる力が乏しければ事実の羅列だけで終わってしまう。内側にいろいろな考えを秘めていても、書く習慣がなければ記録として残らない。

学習記録をめぐって、生徒のいろいろな記録の問題について考える。

「完遂」

学習記録の題名より。

誰がこの言葉を選択するか、関わっている当事者としては興味深い。しかし、自分でも意図しないような前向きな言葉が具体として教室に表れる、このことが何よりおもしろいと思う瞬間である。