放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

<わたし>の学び方

 一人一人の学び方は多様であるという視点に立てば、学習記録が寄与するのはそのプロセスの違いを可視化する点にある。


 今日は3年生「故郷」全時間の学習記録の記述、作文を抽出する調査を行う。分析の観点に基づいて、「故郷」の魅力は何か説明する授業であった。一人一人、同じ時間に感じていること、メモしたことなどが異なり、どこでどのような理解にたどり着いたのかが少しわかるものになっている。

 

 実践時はこまめにノートを集めて毎時間の様子を読んでいたが、このように単元を通してどのようなステップでどのような読みにたどり着いたかを読んでいくと、

*初読で自分の方針を定めている

*途中で他の人の書き方から学ぼうとしている

*毎時間疑問点が変わる

*書く段階になって書けなくなり、見方を変える

などなどなどなど…

どのような歩みをしているのかが見えてくる。記録は、毎時間をタテに見る視点と、ある程度の時間をまとめて見るヨコの視点があるんだなぁ、と実感した。

 

こうした一人一人の学びのプロセスを他者と比べてみるという経験はあまりない。自分にどんな学びのプロセスが起こりやすいのかを知るヒントになるのでは、と思う。

自分の学びに何が必要か

 修士論文の構想発表会に向けて資料をまとめ始める。

 この1週間は問いを立てることに時間を使ったので、これまでに何度も行き来してきた疑問に焦点を当てることができてきたのではないかと思っている。

 特に「自分にとって学びって何だろう」という問いについて、経験を通して獲得することと実感を得ることが学びの過程で大切なことなのではないかと思い始める。

 実践場面でのさまざまな現象を、問いを持って考える場面に差しかかったとき、実践は自分の学び(成長?)になっていくのではないか…。

 

 夕方から大学公開講座の油絵を受講する。今日はオリエンテーションで主に道具の紹介だった。一般対象の講座ということもあり、年配の方が多く見られる。教室の空気がいつも以上に意欲に満ちているなと思う。大学で学ぶって楽しい。

秘密基地を探す旅がしたい

 連休最終日だからか。遠出をしたい気持ちがむくむくと沸いてくる。

 どこに行きたいか…と夢想していると、過去に行った先々が思い出される。その一つに大村はま文庫がある。記録の集積地は、私にとって魅力的な場所の一つだ。

 

 大村はま文庫がある鳴門教育大を私は何度か訪れている。夏に行くことが多いせいもあって、自分の暮らす地域との生活の違いにいつも圧倒される。肌に感じる風も、目に飛び込んでくる風景も、まるで違うのだなと思う。当たり前のことだけれど。

 

 まだ小学校が旧校舎だった頃、学校の裏山が定番の遊び場だった。今でも記憶に残っている遊びは樹液採集だ。木の小さく膨らんだところをつつくと樹液が出ることを発見した私は、その感動から樹液採集が密かなブームとなった。

 ブームは、大量の樹液を採集できる1本の発見へと進み、さらにその1本の木の近くに人が休憩しやすいような小さな洞穴を発見することに至る。どこで知ったかわからないが、その場所こそが「秘密基地」にふさわしいと1人喜びに浸り、木材や植物を集めては、その場所を自分のお気に入りの場所として飾っていったのだった。

 

 大村はま文庫も、私にとっては秘密基地のような場所なのだと思う。知らなかったことを見つける場所であり、自分にとって今まさに知りたいと思っていることを確かめる場所でもある。

 大村はま文庫に限らず、どこで時間を過ごすかは、自分にとって重要なファクターだと思っている。24時間営業のファミレスとか、大学の図書館とか、それぞれの場所に移動することで、また新しい思考の始まりを迎えることができるからだ。

 

 今は、わざわざそこに行かなければたどりつけないような場所に行きたいと思っている。何かのついでにではなく、そこに行くことだけが目的であるような、そんな場所を探す旅がしたい。

振り返り記述の発達段階と学習経験への問い

 小学校のノート指導実践を見ていると、視写する力を育てる実践提案が見られる。黒板を見て正しくできるだけすばやく書く動作は授業記録の基礎として位置づけられる。

 ノート指導の要素として他に、発想を広げること、定着のために練習すること、自分の考えを表現することなどが挙げられるが、振り返りを書く指導も多い。

 振り返りの記述は、小学校段階でどの程度の記述が期待されているのだろうか。中学生の振り返りの記述を見ていても、授業の事実(何を学習したか、何がわかったかなど)を書くことができても、その先にある学びの意義や効果への問いを持って書くことは難しい。毎時間書いていても、そのような質の変化が見られる生徒は多くない。

 発達段階を考えると、やはり学年が上がるほどメタ思考をした記述が多く見られるが、その境目はどのあたりにあるのだろうか。

 また、個人差があるとして、どのような学習経験や思考過程が振り返りの記述と関係するのだろうか。

 

一覧資料にすることで相対化を促す

大村単元学習の中では、作文やレポートを文集化することがある。

国語教師が評価をする際に、30人程度の記述を読んでいる途中で評価基準が変化していく(最初の基準を忘れてしまう)ことがあると思うが、その変化を防ぐために、似たような作品を分類したり、全体をもう一度俯瞰したりすることがあると思う。

学習者の実態を把握して次の授業へ活かすためには、全体の状況を知ることが必要で、一覧資料は全体の中での一人一人の把握を促す。

それは、教師だけのためではなく、学習者のための教材にもなる。一覧資料によって、自分の成果を他者との比較の中で捉え直すことができるからだ。

 

 

学習記録実践を通して見える自分のこだわり

1 どういう授業なら生徒が楽しく学べるのか知りたかった(「楽しさ」が継続の必要条件だと考えているので「楽しさ」が重要)。「眠かった」「難しかった」としたら、その原因はどこにあったのか考えるきっかけがほしかった。

 

2 国語科としてことばの学び手を育てるという気持ちもあったが、絵で表現することなど、ことばの表現に限らない記録があっていいと思っていたし、実際そのような記録がいくつか見られ、そういう記録をおもしろいと感じていた。

 

3 ノート回収を通して、教師への質問・メッセージを読むのが楽しかった。参加者の声を知ることが毎日の授業の中で大切だと思っていた。

「書くことによって学習を開いていくのである」

 

単なるメモ帳でもない、忘れてはいけないことを記しておく、いわゆるノートでもない、学習をとらえておくものではなく、書くことによって学習を開いていくのである。たとい優れた記録にならなくても、それを書いたことによって、その人のうちに育っているもの、書くことによってみがかれる力が貴重なのである。(p.22)

 

 大村はまはノートと学習記録の違いを強調しているが、違いはその機能をどのように位置づけるかにある。つまり、わかっていることをメモする「記録」としての機能だけではなく、わかるために書く、記録を書くことそのものを学びとして位置づける、学習法としての機能を認識している。

 そして、この文章に今の自分が引っかかるのは、論文を書こうとする中で、はっきりしないことをことばにしているうちになんとなく形が見えてくる体験をしているからなのだと思う。実践当初は「わかるために書く世界」の実感がなかったが、今、こうして学び直す過程の中で、自分が学習記録の意義を捉えなおしていることに気付く。