放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

日本国語教育学会2018.8.4~8.5

1日目は文京シビックセンター。小学校、中学校それぞれの授業を見て考える。特に二つの授業の指導過程の違いに目を向ける。個人的におもしろかったのは、授業者の先生がどのようにして生徒の学習過程を見取り、どのような行為によって「自分の受け持ちの生徒だ」という感覚を獲得していくかという話。

 

2日目は品川学園にて。午前中はふらふらとどの分科会にも所属せずに全体を見る。どの分科会に関心が集まっているのかと、見ていてわかることもある。楽しそうな分科会はどこだろう、と気になる。誰が発言し、どのくらい教室内に声が広がっているだろうか、見る。その中で、教師の学びは「主体的・対話的で深い学び」なのかな、と思う。

午後は模擬授業に参加。思いがけず、知っている方たちと生徒役で参加して、それだけで面白かった。先週の大学院での模擬授業と活動内容が似ていて、どこが違うのかを考える。学習者として授業のどの瞬間でわくわくしたり、どきどきしたり、うーんとなったりするのか、感覚をとらえる。

最後の単元学習発表では、発表内容よりも、発表者の研究的立場が興味深かった。学会をどのような学びの場にしようとしているのか、発表の姿勢から学ぶことが多かった。また、発信の多い先生は、他の学会や研究会でもお会いすることが多く、何度も研究の場で会う中で、お互いの研究のプロセスを自然と交流することにもなる。

仲間意識のようなものがあることに気がついたのも、おもしろい1日だった。

8月の大学院授業。

一昨日は修士2年生の模擬授業に生徒役で参加。

やってみることで見えることがある。

パフォーマンスしようとする過程で自分の中から考えが浮かんでくる。

その過程にどれだけ目を向けられるだろうか。

感情にからめとられて何も見えなくなっていやしないだろうか。

 

昨日は授業最終日。遠足で国立国会図書館と神保町古書店巡り。

博士論文から刊行された本をいくつか読む。

合間に憲政記念館へ。教養の役割を知る。

 

今日は日本国語教育学会。一般参加。

東京ドームはコンサートがあるらしく、朝から列をなしている。

量的分析による可視化から質的分析へ。

7月最終日は、これまでの調査のまとめ。

データはただ眺めていてもダメで、数値化、コード化、クロス集計、さまざまに分析する中で焦点化されていく。

最初に気付かなかった違和感が急に浮上して思わぬ発見をもたらしたりする。

自分について多分に気づかされることも多い。

個人思考の時間。

昨日読んだ生徒の学習記録あとがきに、

「みんながバラバラの作文を書いていた」

「自分とは思ってることが全く違うことが実感させられた」

と書かれていた。

 

個人思考から全体共有をした時に、どのくらいの学びが学習者にもたらされるのかが気になっているのだが、どうもこのバランス、もう一度再考すべきなのかもしれない。

 

私の授業は「協同学習」「ファシリテーション」というキーワードで学んだことがベースになっていて、個人思考→グループ対話→全体共有という流れが多く見られる。

 

その流れの中では、グループになった時に、個人思考がうまくいってなかったり、その日のグループ全体の雰囲気がよくなかったり、さまざまな要因で散漫になることがある。そこでつまづくと全体共有も曖昧になりがちだ。

関係性重視の目的意識から取り組んでいることもあるが、そのメリットを置いても全体共有に耐えるだけの個人思考の深まりがあったのか、少し疑問に思う。

 

いろいろな授業を見ながら学習者にとって学びが多くなる授業はどんな授業なのか考える。一つは、自分では考えもしなかった新しいことに出会った時ではないかと思う。

教室で学ぶ意味も他者の存在が大きいのであり、その効果を最大限学びにつなげられるように私は考えなければならないと思う。

 

その一つの視点が、個人思考の時間の持ち方なのではないか。

その工夫は、これまでの多くの実践の中にある。

「おもしろい場面が全然わからない」から、授業を修正する。

中学3年生「故郷」の授業で、「作品の魅力を語ろう」という課題を設定した。

この課題の前提条件として必要なのは、「故郷」に魅力を感じられるかだ。授業前にも想定していたのだが、やはり学習記録には「おもしろい場面が全然わからない」という記述がある。この課題の難点は、わからなければ始まらないということ…苦笑。そこで、私はプリントを作成する判断をした。

 

まず、メモを取りながら全文を読んだ後、全員のノートを回収する。一人一人のメモの状況を見ながら、教科書本文をコピーしたプリントに書き込んでいく。本文に線を引き、その部分についてどのような見方があったのか書き込む。全員分書き込んだら、クラス全員の視点が入った初読の分析一覧が完成する。このプリントを配り、級友分の着想を得ることで書くことを促していった。

 

誰に向けて作成するかがはっきりしていると、教材の輪郭がくっきりとしてくる。きっかけは一人の生徒だったにしても、同じ感覚を持っていたり、新たな発見をしたり、周りの生徒にとっても意味のある教材づくりになる。

 

このように、生徒自身の授業過程の困難さを知ることがそのフォローづくりにつながっていく。私にとって、学習記録は学習者とのチャンネルとしての意味が強い。

 

授業進行時には見えない生徒の記述。

教師は生徒の記述の何を読んでいるのだろうか。

 

今日、3年生「故郷」の単元ごとの学習記録の記述を読む。この単元では初読のあと、「故郷」の魅力があるとしたらどこにあるのか説明する学習に取り組んだ。生徒は「登場人物」や「ストーリー展開」「表現」「結末」などさまざまな観点で書く。

単元の途中で、どの観点が多いのかを共有するために、ノートを一旦提出してもらった。私は生徒のノートのメモからどの観点について書いているかを読み、その分布をプリントにまとめた。

この時、私は生徒がどの観点で書いているかを把握するために記録を読んでいる。私の視点は「1時間」の授業なのだ。

思えば、この単元以外でも、私が記録を読む視野は1時間~2時間程度だ。単元全体への視野は授業進行時にはなかった。

 

しかし、当然のことながら生徒の授業の受け止め方は多様だ。改めて全体の記述を読んでみると、どの時間がどうだったのか、生徒によって学習の盛り上がりは異なる。

 

ここで、新たな問いが浮かぶ。授業は一過性のものなのかだろうか。

確かに授業はLIVEだ。教師はその時その時の判断で授業を調整していく。

しかし、記録は残り続ける。あとから読まれる記述はその後もさまざまな視点を与えてくれ、私たちの見方、子どもたちへのまなざしを更新させる。

 

どのように子どもたちの書いたものを読むか。

授業が現在進行形で進められている時にはわからない見方が、今は見えてくるかもしれない。

書かれない記述との対面。

学習記録を読み直していて思うのは、空欄の日の授業のことである。

何も書かれていないこのページの日、子どもたちは何をしていたのだろうか。

単元のうち、学習者の気づきが多くある時間とそうではない時間がある。単元の導入期はこれから何をするかを知るだけの1時間もあり、何か新しいことに気づくようなことがないため、記述も淡々とした授業の経過が書かれることが多い。「学んだこと」を書くとするルールの中では書かれない日が出てくる。

しかし、作文を書いている時、スピーチの準備をしている時、何か作業をしている過程での記述を軽視していいのだろうか。作業過程の自分の感情や進度など、さまざまに書くことはありそうだ。そういった記述にも、自分を知るてがかりはあるはずだ。

一方で、私の授業を振り返ってみると、チョークアンドトークの日も多いのが事実で、子どもたちは板書を写していることも多い。その中では、自分の言葉で記録を書くことよりも、板書を視写する力が育つ。

では、どのように記録する力は育つのだろうか。

授業で何が起こったのか、自分自身はその時何を考え何を思ったのか、そのことに焦点をあてて書こうとする視点はどのようにして持たれるのだろうか。

そして、そうした記録はどうあるべきなのか。

書かれない記述との対面は、自分の授業形態を振り返るとともに、記録はどうあるべきなのかという問いを考えさせる。