放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

期待と不安が強いんだな。

論文提出が終わり、修士号まであとは口述試験のみとなりました。

締め切りが過ぎると、先のことが見えてくるもので、急に引っ越しのためにあれこれ考えたり、断捨離を始めたりします。変に高揚する気持ちもあって、なんだか不安定です。

考える場面が多かった一年、学校に戻ったら何か違うことが見えるのかもと思う反面、何にも変われないこともあるんだろうなと思います。

相変わらずプライドを捨てきれないところ、

知ったような言葉で終わらせてしまうところ、

薄っぺらなところ、

目的的に行動できないところ……、見直すところはさまざまにあるんだろうなと思います。

 

心の動きは書いていても通り過ぎてしまうことも多くて嫌になるけれど、それでも今あるものなのだから、仕方ないよなとも思います。

自分の研究になる。

論文は終章へ。

これまでの分析のまとめと、そこから見えてきた振り返りを促す学習記録指導をまとめる。

課題は未来の研究につなげられるように書く。多少欲張りなのは私らしくていいことにする。

 

はっきりと、自分は状況や環境に流されながらわがままに作ってきたな、と思う。きっかけは誰かの何かなのに、自分で行動する時には自分の判断が必要になる。自分の研究である。

ぐるっと家をのぞいてみよう。

文章は一方向に読みがちだけど,本当は立体的なんだな。ぐるっと家をのぞいてみるように,いろんな読み方があるんだな。

絵本読み聞かせや紙芝居は最初から読む。1方向のストーリーを読む。冒頭から結末に向けて読むことが,暗黙のうちに沁みついている。いろんな読み方があると知って,一方向の読み方だけに固執しない読みを選択する。それでも,多くの人は最初から最後まで読むってことが当たり前なんじゃないかな(「お話の読み方」っていう授業,やってみたい)。

だけど,書いている人は最初のページから書き始めたとは限らない。実際に書いてみるとわかるけど,試行錯誤の過程で順番は入れ替わり,付け加えられ,削られていく。それが創作のプロセスで,読者は作品を手渡された時にその過程を想像できるかどうかで読みの深さは変わってくるのか?と思う(もちろんそれだけではないけれど)。

こう考えてくると,学びの単線形にも違和感を持つ。先生のお話を「おぉー」「ほうほう」「なるほど」と聞いてなんとなく納得する形をとる。でも,そこにはそぎ落とされていることもいっぱいあるし,今日の話ではくくれない例外も世の中にはいっぱいある。確かに時間は一定方向に流れていくものなのだけれど,学ぶってことは当たり前を疑うってことで,一般化されたものの外側にあることも含めてどうなんだろう?と検討してみることなんじゃないかと私は思う。何度立ち止まって脱線しても,ふりだしに戻っても,先にゴールはどうなっているのか試してみても,ゴール位置を「やっぱりここにしよ」って変えてみても,いいじゃないか。

結局は「問い探し」なのだと。

結局は「問い探し」なのだと。

論文のまとめを書きながら,全体を貫く本当の問いはなんだったのだろうと改めて考えるに至りました。どこか自分には,アウトラインを曖昧にする癖があるみたいで,バシッと5本指でたたきつけるような問い立てができないわけです。問いが浅い。

まとめを書いているとそれは顕著で,いろんな分析が結局はどこにつながっているのかを示さないことには,どれもふわふわ浮かんでいるだけ。それぞれの関係性が見えないところが,もう少しがんばらなきゃいけないところだなと思います。

 

スタンダードってなんなのだろう。

どうも締切間際の過ごし方が苦手です。

論文はすでに9割書き終わっていて,修正を残してすでに山場を越えました。あとは,はじまりとおわりを整えるだけなのですが,ここが一番難しかったりします。

真ん中の部分は,まぁ,書きたいように書けるんです。でも,最初と最後っていうのは,はっきりいってそこしか読まない人もいるわけです。だからちょっと緊張します。読む人のことを浮かべると書けないこととかもあり,慎重になることも多いなと思います。

そんな感じで停滞傾向を見せると,一気に書くスピードが下がります。また,これまでの勢いが輪をかけて自分に変な余裕をもたらしています。これは私の締切仕事前のあるあるです。

それとともに,スタンダードってなんなのだろうなって疑問もめきめきと沸いてきます。論文の形式枠に収めるように書くことを学びながら,わかりやすく書こうとすればするほど,あれこれ浮かんでいたものは手放さなければならない瞬間に出会います。

そぎ落としてアスファルトの道路を作ってみたものの,見渡してみるとどこも同じ道ばかりなどこかの都市のようです。車は走りやすいのかもしれないけれど,ここはどこなんだろうと一瞬自分の居場所を見失うような,そもそも自分なんてものがなくなってしまったかのような感覚になります。適応するのは簡単だけど,そこには置き換えられた価値観が植えられていく。

なんて,そんなこと言っても書かねばなりません,が。

 

教室にいる先生はいつだって孤独で。

研究のいいところは、他者にひらけているところだなぁと、改めて思います。

もし論文を書く機会がなければ、教室の出来事も、子どもたちが書いたものも、基本的には教師と学習者にしか共有されません。書くことによって、初めて教室外の誰かと共有することが可能になるのです。

時に、教室の事実は残酷ですが、その認識も含めて、誰かに伝えようとするから得られるものです。

こんな当たり前のことを、12月の半ばになってひしひしと感じるのでした。