放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

学びの履歴を辿り直す。

ゲーム感覚で。

何があったのか?どんな感じか?

学びを拾い直す。

 

*すごろく:単線、ストーリー

*ビンゴ:他者共有、拡散

*ワンタッチオブジェ:身体表現

*物トーク:物を触媒に使う

    *ノート:物トークの限定バージョン

*ねんどの森:造形表現

*セリフ:限定的記憶、言語

*連想ゲーム:リズム、言語、イメージ、瞬発

 

課題→記憶に依存する。何を見て掘り起こすか?(見ないか)無を、どうするか?(それもありか)

友だちとおしゃべりをした。

以下、あいまいでざっくりとしたわたしのメモ。

 

1.善し悪しの前に立つ。

2.どこに価値を置いているか?

3.「授業をしたい」自分を手放す。

4.中庸はない。

5.それぞれが言う「研究」って違うね。

 

うーん。学習者にとって、しあわせな学びの時間ってなんなのだろうな。

何のために何を求めるのかは、やっぱり学習者自身に決めさせてほしいよ。

問いが生じるまで時間はかかるけど、「わたし」が気づくまで、待ってほしい。

学ぶ楽しさは、自分で気づくところにある。楽しくないと、続けられない。

 

子どものための建築と空間展に行く。

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久々に外を歩く。子どものための建築と空間展。汐留。

 

私は小学校時代に旧校舎と新校舎を経験していて、しかも新校舎はオープンスペース(廊下と教室の壁がない)や円形エントランスで、子どもの学びやすさ、過ごしやすさを意識した設計だった。

残念ながら、階段下にある洞穴は私にとっての居場所にはならなかったが、授業では必ずしも使われないような遊びの空間が学校にはあった。

ティーム・ティーチングや習熟別授業が当たり前に行われていた学校だったので、色んな場所を行き来して学ぶ体験もしている。実は、自分の学び方探しの原風景は、新校舎に移ってからの小学校2年間の記憶が強い。

 

展示は教育の歴史とともに学校建築や子どもの遊び場がどのようにして作られてきたかを見せる。何気なく使う教室のものや配置が、さまざまな意図を持って設計されていることを知る。

また、かつての資料を眺めながら、論文の先行研究を調べる際に、明治期の資料がいかに貴重かを知ったことを思い出す。

数十年の文脈では捉えきれない変化もあり、歴史を紐解くことの大切さを実感する。

物語をつくり続ける。

物語の創作が面白い。

シェアードストーリーをしながら、次々とアイディアを書き出す子どもの姿に心が動く。

そうそう、何か自分で見つけたことや作ったものは、誰かに教えたくなることがある。しかも、その内容が誰とも同じじゃない時、私はこうだったとつい言いたくなる。

そこに自己検閲が入ったり、評価の目が気になったりすることで、だんだん面白くなくなり、いつからか誰かに見せるのは恥ずかしく感じたりもする。

だけど、そんなことを感じる暇もなく、自分に湧き出るものを楽しめたら、どんなにすてきなことだろうと思う。

誰かに伝えたい物語がある。その時、気づいたら書いている、そんな学びの場を作れたらいいのにって思う。

 

 

学会発表が終わる。

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当日の朝,リハーサルしてみたらやっぱり自分でもこれじゃあ伝わらないなって思うことがたくさんあった。わからないものがなんなのかもよくわからなかった。口述試験でも言われた通り,私の書いたものは自己理解に留まっていて、研究としての問いのレベルアップが必要なんだと自覚する。

出てきた分析結果を,「主体的対話的で深い学びとどう相関するのか」とか,「授業改善の材料としてどういった具体的な活用が考えられる」とか,何かとの考察につなげることが必要なのだけれど,結局できなかった。できたこと,わかることを話したいけれど,わかったことは自分の授業がどうだったかで,これが誰かの何かになるにはまだまだ。省察に軸をおいて記述するにしても,実践過程の自分の記録が不足。反省ばかりが浮かんでくる。

 

質問の中では,国語科の研究でいいのか,教育方法学とか教師教育学の文脈で踏み込んでみたらいいんじゃないか,というご意見をいただく。他教科の要素を実感している小学校の先生から見たらやっぱり見え方は違うんだろうな,などと思う。
ただ、国語科の学習としての学習記録を考えると、すこし違う気もしていて,じゃあどういうことが国語科の学習記録と言うことができて,そこではどんな力が育まれるのかとか,もっと考え深めることはあることがわかる。

 

さて、発表が終わってみてやはり課題に感じるのは,自己理解の範疇から研究が抜け出せていないこと。自己完結しているうちは,批判しようにもできない。分析とかいっているけれど、計数の妥当性とか曖昧なことも多い。これからすべきことは,自分の実践の記録を悔いなく残し続けることと,視野を外に向けること,現場の実感を持ちながらも,共感を持って誰かと何かを良い方向に変えるための研究方法を考え続けること。

 

学習記録の実際は全国のいたる所で存在するわけで,教科にとらわれず学習者がどんな学びの実際とともに,どんな記述を残しているのかは,自分の専門として見つめ続けていけたらいいなと思う。

即興実験学校に参加する。

雪が降り積もるつくばを抜けて、東京へ。

初めて即興実験学校のワークショップに参加する。今日は少人数でしかも経験者揃い。ゲームよりもパフォーマンスに比重を置いた体験がたくさんできたことは有難い機会となる。

演じている途中で紙に書いてあるセリフを話すとか、ペーパーズのプログラムは何度か体験があったけれど、今日体験したのはもっと人間の行動様式を考える瞬間が多くておもしろかった。

 

心が動いた瞬間は、イエスアンドから、相手に寄り添うことにシフトした瞬間だ。

たしかに否定から入る場面が多いとき、まずは受け取る関係で安心を作ることが大切だと思う。

しかし、その素地がある場では、ただ受け入れるだけではなく、相手がより楽しんだり喜んだりすることを考える視点があるといい、という話に自分の見方がひろがった。

 

なにか、この見方はいろんなことを考えることになりそうだなと思う。

 

調子が戻らず。

久しぶりの雨。先週、今年初めて雪を見て以来の曇り空。やらなければならないことがあまり手につかず、休み休みの一日だった。

自分のものの見方を改めたいなと思うような一日でもあり、息詰まりを感じるような一日でもあり、こんな日は誰かと話をしたらすぐに回復する単純な性格なのに、なかなか周りの人とタイミングが合わなかったり。

学会資料印刷のリミットが過ぎているにもかかわらず、口述試験以来うまく機能していない毎日。うまくいかない日も、そりゃ、あるんだよな。そんなもんだ。