放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

六本木クロッシング2019展:つないでみる

3月21日春分の日六本木ヒルズから。

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六本木クロッシング2019に行ってきた。同会場の新北斎展は90分待ち。こちらは5分。

www.mori.art.museum

2013年アウト・オブ・ダウト,2016年僕の身体、あなたの声,そして今回の「つないでみる」で3回目。私にとっては現代アートとつながる貴重な展覧会です。

keynote.hatenablog.jp

 

2013年は東日本大震災でさまざまな社会の揺れ動きを感じた印象があったけれど,今回は「見える/見えない」ということが,つながりの一つのキーワードとして浮かんできた。特に平川紀道のビジュアルインスタレーションなんかは,自分の視覚情報がどこまで正しいのか,このように見えるのはどこまで持続可能なのかを考える。作品と向かい合う途中で,見えなくなることの怖さを感じた。私は,見えなくなることが怖い。

その一方で,見えないふりや,見えていることに気づいていないこともある。自分の都合のいい部分だけを見ることで失うものもあるのだとわかっているけれど,見るものを選んでいる節もある。こうすべきだとは,強く言うことはできなくて,いろいろなことを留保して日々生きているのだなと思う。

大学院で学んで,変わったことは何か?

私の大学院での学びの時間が終わりを迎えようとしている。
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3月に入り,これまでお世話になった方々へご挨拶を重ねるうちに,自然と「大学院に来てどうだったか」を語る機会も多くなった。
今日は,大学院生活2年間で最も強い影響を受け,実践者としても研究者としても尊敬する先生とお話する機会を得た。その先生からは修士論文執筆においても基礎的なことから丁寧に学んだし,授業づくりの考え方や学習者との関わり方においても実際の大学院授業を通して学ぶことができた。誰かに話すことで自分自身で見つめ,気付いていくことの価値を改めて確認した日だった。
3月の高揚感で饒舌になる自分はあまりよくないなと思うのだけれど,今日だけは書き記しておきたい気持ちになった。
 ずばり,現職教員が大学院で学んで,変わったことは何か?
 
 
その1,論文が読めるようになる。
 
これ,結構衝撃的な変化で,書くことと読むことの連動を強く意識することになった。
実際には,

 

論文を書こうとする

→論文ってどのように書かれているんだ?

→あたりをつけて論文を読む

→ほうほう,こんな風に書けばいいのか

→自分で書いてみる

→あれ,書けないぞ,なんでだ?

→さらに読んでみる

→ああ,この1文書くためにこういう作業が必要なのか

→またやってみる

 
といった過程が私にはあった。 
もちろん,簡単には書けないし,読んでも理解できなかったりするので苦しむわけだが,それでも大学院で学ぶ前の自分は研究的作法も研究過程も全然見えていなかったので,論文を手にして言葉から理解することが大学院に来る前とはまったく異なる。
さらに,心理学とか言語学とか,その他の横断する研究分野の文脈に触れることによって,勉強することで理解する範囲が広がることも体感することになる。
 
 
その2,今の自分にとって「学ぶ」ってどういうことなのかをつかむ。
 
そうした学びの過程を通った結果,私にとって学ぶことは学習者にとっての発見や気づきであり,知識の獲得はそのおもしろさと共存することで有機的に学びを獲得していくものなのだと知る。
現場にいたころ,「それ,前にも言ったじゃん!」とか,「一度教えたのに,どうして理解してもらえないんだ!?」とか思っていたこともあったけれど,誰かの言っていることが聞いた瞬間に腑に落ちることはほとんどないわけで,それぞれの経験や文脈が重なり合って実感したり,価値を発見したりするのだと学び手に戻って気づいた。
実際に私の場合は,先行研究のレビューを書こうとしていろいろな書き方の手順や方法を学ぶのだけれど,結局自分で形にするまでには2年生の後期までかかった。でも,自分の試行錯誤してきた結果なので,その過程が何よりも必要なことだと今は思う。
これは,ことばの学習においても似たようなことが当てはまると思っていて,やはり教科書に出てきたことばの辞書の意味を確認したところでそのことばは学習者のものにはならないし,ストーリーや自分の生活の中でそのことばがもつ質感や力を実感して「学ぶ」と言えるのだと思う。
 
そして,教員にとって「学ぶ」ことの意味が変わってくると,自然と授業は変わっていくのだろうと思う。
 
ちなみに,「教員にとっての学び」について,よく大学院での学びの議論の中で「実学だから/実学ではないから」という問題を聞くけれど,私はその違いだけではないように思う。
もちろん,一つの学びしか経験していないので,一概に言えない。しかし自分の体験で言えば,学習記録の研究過程の中で「ノート指導」に関する書籍を読む場面があり,その内容は「どのようにノート指導をするか」が主な内容であることが多いことに気づいた。まさに明日からの授業で使える技が目立つ。しかし,指導方法を突き詰めていけば,一人一人の実践の違いや信念,哲学,方法選択の背景にあるこれまでの研究など,見つめざるを得なくなる場面に突き当たる。
背後にあるものをどれだけ掘り起こすことができるかが問題であり,研究対象となるコンテンツの大きさ(領域の広さ?)だけではないと思っている。
 
 
 
結論として,大学院で学ぶっていいですよ!
 
……って当たり前で,なおかつ,2年間恵まれた環境で学べるなんて,そう多くはない事例で申し訳ない。ただ,2年で知り得るのはほんのわずかで,膨大な研究の蓄積があることを知るとこの先に出会う子どもたちの学びと自分の学び方についても考える場面が自然と多くなる。子どもたちのイメージと学校での経験を持っている現職教員だからこそ,「学ぶ」ことの姿を追い求めながら学生生活を送れるのかもしれない。
 
 

即興実験学校に参加する。2

桃色に色づいた木々を横切り、ベッカライのプレッツェルを食べながら東京へ。

 

即興実験学校3月昼の部。2回目の参加。全く違うメンバーに驚く。出たり入ったりしながら18年続けている会。どんなストーリーがあるのだろう。ドミンゴさんの信念を感じる。

 

今日は小学校でのインプロ授業をもとに起こったことを実際に体験しながら考えていく。プログラム自体は獲得型研究会で体験したものがほとんどだけど、文脈も参加者も違うので気づくことは毎回違う。インプロっておもしろいな。

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人前で自分を表現することと、社会で生きるからこそ働く自己検閲の問題は、その獲得を今まさに乗り越えようとする子どもたちにとって切実な問題だなと思う。

しかし、一旦自分のことを振り返ってみると、いかに周りを伺って同調することの多いことか。人と協力することの心地よさはたしかにある。また、相手の望むことを考えることは大切だとも思う。反面、気づくと自分の選択を放棄するようになっていることにも気づく。私は反動で、意識的にひとりの時間を持つことも多い。いろんな制約を自分に課すことによって、失われていくこと、できなくなってしまうことがある。

 

安心して自分の選択を持ち寄れる場は居心地がいいはずだ。

では、どうしたらつくれるのだろうか。

わたしたちは何を大切にしていったらいいのだろうか。

 

 

 

筑波大学書専攻展示会に行く。

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雨、冷たい3月。

 

志ち乃さんで道明寺を買って、つくば市民ギャラリーへ。

たまたま大学の授業で同じグループになった学生さんと仲良くなり、展示会のお誘いをいただく。中央公園の池の上に建つギャラリー。

 

教養がない私でも楽しめる展示会だった。書芸術の創作性は、私が思う以上にバリエーションがあるのだなと思う。紙や筆記具の工夫はもちろんなのだけれど、書き手がどのようにして題材を選ぶのかもおもしろかった。彼女は、書くために詩集や句集を読むのだとか。内容よりも字面に視点が置かれるのだけれど、そんな出会い方もあるのだなと思う。

 

昨夜は卒業のお祝いにと、メッセージカードをもらったのだけど、たった4文字の宛名だけで感動させる筆の力ってすごい。

現実的な日々。

落ちついて本を読むことよりも、論文を書くことよりも、優先してやらなければならないことがある。

研修派遣の事務手続きをしなければならないとか、引っ越しのために諸々連絡しなければならないとか。

ゴミを収集日に合わせて捨てたり、冷蔵庫の食材を余すことなく処分したり。

目の前の現実的な問題でいっぱいで、他の何かを想像しろと言われても、それは困ると言いたくなる。

「いや」と言えることも大事。

情報と向き合う。

ぼくは自分が参考にする意見としてはよりスキャンダラスではないほう、より脅かしていないほう、より正義を語らないほう、より失礼でないほう、よりユーモアのある方を選びます。

 

糸井重里『知ろうとすること』あとがきより

学びを手放す。

引っ越し作業をする。

毎回引っ越すたびに、物と向き合う。

アップデートしなければならないものがたくさんある。消耗品。

でもほとんどは、自分には余りあるものばかりだ。

今の自分がほしいもの、未来の自分にほしいものは何か考えながら、残す物を選ぶ。

捨てることは、何を大切にするかを決めることだ。

あれもこれもと欲張るうちは、結局何も自分の手に残っていない。

自分にどのくらいの余白があるだろうか。

余白があればあるほど、新しい何かに向かうエネルギーがわく。