放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

学年末に学習記録を読んで気づくこと

学年末の学習記録を集中して読んでいる時期なので,読んでいる間に気づいたことを記録しておく。

1 教師にとって気になる授業の記録に目が行きがち

自分にとって思い入れの強い授業とか,チャレンジングな授業は生徒の反応が気になる。ねらいが達成されたのか,価値の共有がはかれたのか,記録を読みながら授業を振り返っている。

学習者の反応は十人十色で,全員のために授業するのは難しいなと思う。

2 生徒間のやりとりに関係性の醸成が見られる

作文を書いたのを読み合い,付箋を通してコメントし合う授業の記録から,コメントの内容を通して,互いの関係性の変化が見られる。

3 ふとしたところに学習者独特の語感を発見する

毎日記録していると,ただ「難しい」と表現するだけにも,いろいろなバリエーションがある。

4 授業の知らなかった事実を確認する

グループ活動で全班の活動を逐一観察することはできないが,記録を読む中でどんな出来事が起こっていたのか,誰がどんな活躍をしたのかの一端を知ることができる。

5 言葉は足りなくとも,自分に残された事実を大切にする

教科書本文を読んで,十分に言語化できてはいないけれど「なんかきれいだと思う」と何かを感じ取った事実だけでも記録しておこうとしている記録が見られるようになった。

6 成長の記述が嬉しい反面…自己満足の側面も

できなかったことができたとき,その成長の実感が学習者にあることがわかると教師は嬉しいだろう。100時間の中で,そんな成長の実感が訪れた瞬間はいつだったのか,記録を通してわかることがある。

しかし,自己満足の側面もある。その評価の見立てはどの程度のグラデーションであるのか。本気で力をつける授業でなければ,成長の記述も意味を持たない。

7 誰のための学習記録なのか

私は記録を通して生徒のことを知ることができるし,おもしろい。でも,教師が読むことによって,「書きたい」よりも「書かされている」意識が感じられる記述も見られる。学習者にとって毎日記録を残すことは本当に大変なことなのだ。その大変さを上回るだけの得るものがどれほどあるのか。

 

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目次づくりと役割演技音読

学習記録目次づくりの予告

学年末テストが終わり,残すところ10数時間の授業時数を残して,学習記録づくりの終末にとりかかる。

最後の作業は,これまでの学習記録を束ね,目次をつくる。

今年度は学期末に目次づくりをせず,資料を束ねるだけの作業で終わらせてきた。

そこで,1年間の授業をふりかえりを兼ねて目次を作成する。

 

作業中に意識したいことは3つ。

・1年間の授業を思い出すこと。

・未来の自分に残したい言葉を探すこと。

・学習記録のあとがきにどんなことを書こうか考えること。

 

目次づくりは楽しい人には楽しいし,楽しくない人には楽しくない作業だ。

だけど,日々の膨大な記録を1枚に凝集することの価値も学んでほしいと願っている。

 

役割演技音読—『エルサルバドルの少女ヘスース』

学習記録づくりと並行して,教科書の残された教材の授業も進む。

今日はフォトジャーナリスト長倉洋海さんのノンフィクションを読む。

印象的な少女の写真とことばを読んでいく。

 

どうしたら学習者参加型の音読になるかなと思い,今日は本文中の少女ヘスースとその夫のフランシスコのセリフを読んでもらう。

最初,自分のなりたい方を選んで・・・と思ったが,ヘスースのセリフ量が圧倒的に多く,途中で「これはだれも選ばない」と気づく。

そこで,ペアでどちらかを選ぶようにし,クラスで半数ずつの役割を決めてみんなで読んだ。

ペアにした方が,隣の人がどんな風に読むのかを聞くことができるので,楽しく読むことができそうだ。

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 ヘスースの言葉も,フランシスコの言葉も,それぞれに何度か音読してもらって,何か感じるところがあるといいなと思う。

「自分で研究する」授業を考えながら思うこと

とにかく,自分で研究する,自分の題目で研究する,ということは,なんという張り合いのあることでしょう。むずかしいことが起こって,困って,苦労して……,そういうこともたびたびです。でも,先生に,友だちに相談し,ああすれば,こうすればと,くふうして,少しずつ進めていく張り切った気持ちは,苦しみながらも,”楽しい”——じっとだいじにしていたいような気持です。(pp.5-6)

大村はま国語教室 第15巻 ことばの勉強会

大村はま国語教室 第15巻 ことばの勉強会

 

どうしてだれも教えてくれなかったのか

 大学生になったとき,突然,「研究」という言葉が自分の問題意識として迫ってきた。大学を卒業するには卒業論文を書かなければならない。卒業論文を書くためには,自分で研究のテーマを決めて,研究しなければならない。

  でも,高校までの私は,大学に入るための点数を取る勉強ばかりしていたし,その「勉強」は早く終わってほしいものでもあった。大学への入学が決まって,やっと自分の興味のある「勉強」ができると嬉しく思った。その時は韓国語の習得が何よりも楽しい勉強で,やはりそこには「研究」ということばはなかった。

 大学に入ってからも,大学で何を学ぶのか?という問いは常にあった。大学の先生たちと交流を深めるうちに,大学で学ぶことと高校で学んだことの間にはとても大きな溝があるようにも思えた。そして,「研究」の初歩の初歩を学ぶうちに,どうして高校までの授業では,自分でテーマを決めて,自分で調べる授業がなかったのだろうと思った。

 厳密に言うと,小学校,中学校で調べ学習はたくさん経験したし,レポートや新聞にまとめる活動も多かった。しかし,どれも時間をかけて作り上げるような,自分だけの楽しみとしての学習ではなかったなと思う。課題として取り組み,終わらせることがゴールになる。そこに,新たな問いは生まれない。

 だけど,自分の横には,ものすごく熱中して楽しそうに研究をしていた学生もいたのだよな,と思う。高校生の私は,あの人は自分とは違って賢い人なんだな,とか勝手に思って自己完結していたけれど,実は誰よりも問うことを楽しんでいたのだろうな,と今なら思う。同時に,学び手として,受け身な自分をひどく恥ずかしく思う。

資料が語る

  大学院に行ってから,問いを持つことや,自分で課題設定して探究する授業に関心を持つようになって,改めて,学習者の「楽しさ」がいかに大切かを考えるようになる。今年度は,じっくり授業を創り直すことに意識を向けてきた。実装はまだまだ難しくて,結局はこちらがあれこれと準備しないと運営できない授業になっている。学習者に委ねるって,簡単なことじゃない。

 しかし,たまりにたまった授業記録や国語科通信を読みながら,その資料が語る熱意に心が動く。試行錯誤の末に,授業が形作られていく。長い時間が積み重ねられている……。こうして,誰かが苦しみながらも楽しく,大切に記録したものが,たしかに誰かに届くことがあるのだよな,と思う。

 

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最後の発表会とビブリオバトルー12月の授業

単元 状況を生きるー『故郷』の作文発表会

 ヤンおばさんの生き方,私とルントウの生き方について2時間パネルディスカッションをし,その話し合いから印象に残った発言と理由,そしてこれからの社会をどう生きていきたいかを綴った文集を読む。一人一人と作文を通して向き合う,おそらく最後の発表会になる。

 発表者が作文を読み上げた後,リレー形式でコメントを発表する。コメントを言い合う活動は,この1年間で何度も繰り返し行ってきたことだが,最初は発表者の意図を汲み取る肯定的要素の取り上げを重視し,最後は発言者にしか言えないコメントを考えることを課題とした。コメントは慣れてくると何でもすぐにわかった気になって簡単に言えてしまうけれど,受け手に刺さる言葉を選ぼうとすると,それだけでいろんなことと向き合うことになる。一人一人が書いたものを,一言一句大事にしたいと思う瞬間が何度もあった。

 「これからの社会をどう生きるか」なんて正直わからないし,難しいテーマだなと思うけれど,それでも「豊かさとは何か,貧しさとは何か」といった次の問いへのアプローチも見える作文もあり,15歳の一人一人の言葉の重みを感じる単元だった。

学年ビブリオバトル大会

 委員会主催での運営。学級ビブリオバトル予選を経て選ばれた代表者が3分の持ち時間で本を紹介する。質問もそれなりに出ておもしろい。昨年の経験もあったようで,場に慣れ親しんでいる様子。

 投票集計中の5分間の場つなぎで,私も本を紹介する。紹介したのは大村はま全集(笑)。たまたま代表者の本がすべて小説・物語だったので,そうじゃなくてもいいんだという話,それからみんなが毎時間やっている学習記録にどんな価値があるのかという話,本は時に自分の生活に寄り添ってくれる存在にもなるんだ,というちょっぴり青い話をする。

大村はま国語教室 第12巻 国語学習記録の指導

大村はま国語教室 第12巻 国語学習記録の指導

 

 あとは12月ということで,ふわふわと百人一首を楽しんだり,クリスマスにちなんだ絵本の読み聞かせをして2019年の授業を閉じた。

 

ここまでで85時間。

あとは1~2月の30時間で今年度の国語の授業もおしまいだ。

「もともと故郷はこんなふうなのだ」―11月の振り返りと12月の単元

聞き出さないとわからない

11月は,自分が担当する総合的な学習の時間の山場を迎える月だった。

自分の無責任な立ち回りのせいで,学習者におもしろくない時間を過ごさせる経験をした。申し訳ないが,今年度の大きい学びだった。

教科の授業のように,自分が責任者で一人で計画・運営することについては概ね何の不自由さを感じることはない。しかし,協同で創っていく総合のような授業では,だれがどこまで責任を持ち,計画に不具合が生じればどのように修正をはかったらいいのか,どこまで口を出すべきなのか考えてしまう。

今回は,気付いた事は間髪入れずに言った方がいいことを学ぶ。それぞれに忙しいけれど,思っていることはわからないのだから,直接聞きにいかないとダメなんだよ。

 

学習ゲームでやり過ごす

授業は学力テスト,定期テスト,成績評価の山を過ぎた。が,3年生はすぐにまた学年末テストがあるので,のんびりとはしていられない。

和歌の学習を,教科書に書いていることを主として進む。音読練習はじゃんけんをして勝った方が読む歌を選択できるゲームを取り入れる。後半は,教科書掲載歌から1首を選ぶ活動を少しだけ入れて,残りは解説をした。

月末は魯迅『故郷』の単元への導入準備。範読するだけで1時間を要する『故郷』を読みながら,題名から小説の内容を予想する力を問うワードビンゴを行う。範読を聴きながら,予想した単語を塗りつぶすだけの活動だけれども,単純なゲームはたまにやると盛り上がるものである。

鬼門の11月をやり過ごした。

 

文字化資料を活用する

12月の単元はパネル・ディスカッションで『故郷』の登場人物の生き方について考える2時間。すっかり道徳的だと,自分でも思う。

今回は録音と文字起こしの作業をする。文字起こしは時間もかかって本当に大変な作業だが,話すことの指導はその場で起こったことを題材として学習するべきだと思うし,文字化資料として残すことで振り返りを促すことが効果的だとも思っている。

 文字化資料を活用して,話し合いで印象に残った発言を記述,その上で自分の「希望」についての考えを書く。出来上がった作文を文集化して読み合う。ここまで2時間。これが,最後の文集になるだろうか。

 

そして,11月だ―10月の振り返り

10月は校内の研究授業があり,久々に感じた興奮をどう解釈するのか考える1か月だった。また半年ぶりに定点観測の教室を訪問し,変わってしまった自分の感覚に気づかされたりもした。断片的にしか書くエネルギーがないので箇条書きで残しておく。

 

竹田青嗣『「批評」の言葉をためる』に対して愛着があるんだなと気づく。感情的な言葉しか並べられないことに対して憂う気持ちがあり,人ともっと言葉で伝え合えるようになったらいいのにな,という願いがある。

SNSを介したコミュニケーションに対しての信頼は年々薄れている。ちゃんと会いに行って伝えるってことを大切にしたらいい。

・単元のまとめをしながら,気付くと「相手のことを考えて・・・」と言っていた。自分の求める国語科授業が道徳的だなと思った。

・いつだって自分が一番学びたがっている。

・参観日でおくのほそ道平泉の授業をした。どう授業したらあの名文を感じられるのだろうか。何回授業してもわからない。苦笑

 

今月もたくさんの本を借りたのに,まともに読めた本はなかった。『尾を喰う蛇』だけは,ずっと何かがひっかかっている。

新潮 2019年 11 月号 [雑誌]

新潮 2019年 11 月号 [雑誌]

 

そして,11月だ。