放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

授業づくりを科学する。

昨日は中原淳監修・脇本健弘・町支大輔著『教師の学びを科学する―データから見える若手の育成と熟達モデル』(2015、北大路書房)を読んでいました。
 
それでここ数日「科学する」という言葉が気になっています。
 
 
大学院での授業が開始して2週目を迎えています。
 
残るガイダンスは2つとなりました。
 
これから本格的な授業の本題に入っていきます。
 
 
ここまでの気づきとして、修士課程の授業には2タイプあることがわかりました。
 
1つは、専門性を高めるための理論を学ぶ授業です。
 
それぞれの先生の専門内容をもとに、
 
実際に自分たちも一部分を講読・検証・発表するタイプです。
 
例えとして中学校国語科の私の場合で言えば、
これらの授業を受けても、直接的に『少年の日の思い出』や『走れメロス』の授業開発にはなりません。
 
しかし、理論を学ぶ基礎的な演習になります。
 
一つの題材に対して、参考図書を探し、読み、解釈をしてレポートにまとめる、といった学習過程が必要になります。
 
題材はマニアックなものも多いですが、自分の知らないものを解明していく基礎を身に着けていく点で、研究の「筋トレ」のようなイメージで捉えています。
 
 
もう1つは、国語科授業の「実践の姿」を学術的方法で追究していく授業です。
 
こちらは国語科授業を題材として扱っていきますので、実践的です。
 
先ほどの「筋トレ」に対して、「実際に走ってみようか」といった感じ。
 
しかし、現場の研究授業と違うのは、授業検証の方法に重きをおいている点です。
 
確かに、これまでの授業づくりを考えると、個人的感覚で授業をとらえることが多かったな、と振り返ります。
 
 
その授業の価値は何か。
 
なぜその方法を取るのか。
 
国語教育史の中での位置づけはどうなのか。
 
そもそも「○○」ってなにか。
 
その授業が効果的なのかどう検証するのか。
 
 
「きっとこの授業をしたら、子どもたちは楽しいだろうな」
 
私はそういうことを考えて授業づくりをしてきました。
 
でも、授業が終わってから「で?」という授業が多かったのも事実です。
 
授業を受けながら、事後検討がなんとなく次の実践に深くつながっていかない感じは、
 
「検証」部分の弱さにあるのかなと思ったりもします。
 
だから、実践も考えつつ検証をしていくというのは、「授業づくりを科学する」ことなのだと思いました。
 
 
どちらも修士論文につながる重要な授業だと思っていますし、
 
プラスαで、現場教育の科学的実証研究を何らかの形で位置づけられないものかと考えています。
 
1つの授業づくりに大学院ほどの検証の時間は取れないですが、
 
効果的な授業方法を見出していくためにどんな工夫ができるのか、
 
教育活動を「科学する」視点は、これからの課題として持っていきたいです。
 
 
さて、どうなることでしょうか。
 
ひとまずは本格的な夏を迎えるまでがひと山になりそうです。