放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

教師のダブル・バインドがコミュニケーションを末期症状にする。

 昨日の1冊はこちらでした。

 

一番興味深かったのは、教師の「ダブル・バインド」についてです。

この話、私にとってはちょっと重くて暗い感じになってしまいました。

 

ダブル・バインド」とは、グレゴリー・ベイトソンという人が名づけた「コミュニケーション失調をもたらす条件づけ」のことらしいです。

質問に対して何を言ってもOKな場面があると同時に、何を言っても誤答(叱責となる)場面って教育現場でたまに見られると思うのですが…どうでしょうか。

偏見かもしれませんが、部活動の指導で多いような気がします。教師の価値観の押しつけというか、子どもを四方八方から追い込んでもうそれ以外の考え方はできない状態にしてしまうとか…。

ちょっと恐ろしい表現をしていますけれど、 でも、教師は生徒よりも上位者である状態が通常ですから、こうしたことは起こりやすくて当たり前だと思います。問題は、何を答えても「誤答」となるコミュニケーションの場を作り出すことです。

 

これで思い出したのは、

 私が他者に対して「物言いがキツイ」人間である

と認識したことでした。

中学生の時に、先生に呼び出されて、私が好意を持っている友人が実は私の言動で傷ついていることを知らされることから始まります。

先生はいろいろな言い方を駆使していたかと思いますが、私にはその際のやり取りは「友人が傷ついている」「私の言動は改めなければならない」という結論で終始していましたから、何を聞かれても「すいません」としか言えませんでした。

そのことをきっかけに私にとってはさまざまな質問や説得がすべて「あなたの言動は間違っている」というメッセージに解釈されていくのです。そして、完全に自分を否定されるのが怖いから、「外部の世界に関心を向けることをやめる」ことになるのです。

 

思春期のメンタルによくあるよねー、と今は思うし、

先生のせいにしすぎじゃないか、と先生を擁護したくなる気持ちもあります。

ですが、一定の力関係のある人間関係の中で、相手の言動を一生懸命に解釈しようとしても、いつも一つの方向にしか決着しない。そんな場面を繰り返されたら、やはり「考えても仕方ないな」と思ってしまいますよね。これが「コミュニケーションを末期症状にする」ということなのだと思います。

 

「空気を読む」とか「表情で理解する」とか、非言語のコミュニケーションが発達していく一方で、教師が持つ特殊なコミュニケーションの構造を意識しているかどうかには大きな違いがあると思います。

 

今日は生徒とのかかわり方についての話になりました。

週の真ん中から暗い話でしたけれど、本当はそんなにでもないです。

 

昨日の夜は何も考えずにただ音楽を聴く、という素敵な夜でしたしね。

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