放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

分けることのわかりやすさ。

最近、「分けること」について考える。

国語の授業で、話す、聞く、読む、書く…と分けることや、

文法の授業で、品詞を分けること、など……。

論文を見ていて、類型に隙が見えてしまうこともある。

 

分けることは、わかりやすくすることで、

物事の本質とは離れることを覚悟しなければならない。

特に言葉というものは、科学的に分類しようとしても、

その体系は大きすぎて一人の人間に負えるものではないし、

時間と共に絶えず変わっていく。

しかし、私たちはついつい、分けられたものを見て、

そこにフォーカスが置かれっぱなしになってしまう。

 

それはやはり、分けることで、物事がわかりやすくなるからだ。

今起こっている問題も、小分けにして原因を分類すると、

解決できることが少しずつ見えてくる。

自分に起因するものは自分でなんとかすればいいし、

自分にはどうしようもない問題はとりあえず保留すればいい。

すると、次にどうするかの行動が見えてくる。

分けることは、認識を促進する。

次の行動を生み出すために必要な思考の一つと言える。

 

だから、分けることがわかりやすさにつながる。

「今日は書くことの授業です」と言えば、「書くことをするのね」と共通理解できる。

今日のところは話すこと聞くこと読むことの学習はさておき、書くことの学習をする、と重点が置かれる。

ただ、それは重点が置かれるだけなのだけれど、私たちは分けて考えることで次の行動がわかりやすくなる。

 

そもそも授業という時間も50分という区切りで行っているけれど、

学びは50分で収まるのが絶対的かと問えば、そんなことはないだろう。

ただ、50分であることで見通しが持てたり、その中で学ぶことが明確になったりする。他の予定が立てやすくなる。

分けることでわかりやすくなり、わかりやすさは学びやすさを生む。

 

それはいいことなのだけれど、

元をたどれば、やはり分けられないのが本来の姿だ。

いろいろな試行錯誤があって、どのように分けるのが適当か、

その選択肢の中で最も適当なものを選んだ、ということが多いだろう。

 

だから、敏感な学習者がその分けられなさに気づいた時に、

どのように教師が対応できるのか、

どうしてそのように分けたのか、

原理を知らないと説明はつかないのではないだろうか。

 

分けることでわかりやすさを生み出すと同時に、説明のつかない例外を生む。

わかりやすいことと表裏一体でわかりにくいことがある。