国語教育系の実践発表を垣間見ていると、
演劇的手法が最近ホットな話題である。
ということを、国語教育関係の人とお話しして昨日で3度目だ。
ゲストティーチャーの授業と相まって、
本物の演劇に触れる機会も増えている。
ただ、気になるのは、
実際にパフォーマンスをする形でその能力を高める方向と、
演ずることで実感を伴った学びにする方向と、
目的のズレのようなものを感じてしまう。
それらは分けずとも、両方が存在するものなのかもしれないが、
何のために演劇的手法を取り入れているのかあいまいな実践を見ると、
ただ単に外から面白そうな手法を持ってきて入れてみただけの教育になってしまう。
それで、やってみたらうまくいかなくて、継続しない…
だからいまいち力がついたのかもわからない…
という、実践の悪循環を生みそうだなと思う。
あくまでも私の感覚でしかないが、
演劇的手法は「これならおもしろそうだ」「やってみたい」という空気をいかにつくるかと、
やってみたところで、学び手にどこまで委ねられるか、
創出されたものをどのように受け取るか、
教師のファシリテーターとしての技量も同時にはかられると思う。
だから、ホットだけれど「自分が」という感じにならないのだろうか。
「自分が」という人を、私は知らないだけなのだろうか。
私は言語化を促す学習過程として演じることを見ている。
演じる中で自分を発見するおもしろさに、演劇的手法の魅力を感じる。