大村はまの読書生活の指導記録を読んでいる。
一年生から積み上げた単元学習により、共同にそれぞれが調査したことを発表し合う座談会がある。
協同学習の試みがよく見えるすてきな単元だなと思う。
そこで大村は司会の役割を担っているのだけれど、
誰がどの本を読み、どのような内容が書いてあるのか、すべてを把握しているかのような進めぶりだ。
「話を本題にもどしましょう」といった発言もある。
かなりドライブの効いた座談会の進め方だなと思う。
そこで、話し合いの場における教師の役割について引っかかる。
教師は話し合いをきれいに収めようとして、発言者の本当に言いたいことを矮小化するようなことはしてないだろうか。
確かに時間の中で必要なことのみに焦点を絞って話し合うことは大切だ。
そのことを授業を通して共通理解させる意図もわかる。
ただ、ここで言いたいのは、教師の枠を超えた読みの可能性は本当にないのか、という疑問だ。