「客観」という言葉は、いつどのようにして獲得される言葉なのでしょうか。
わたしが美術部員だった時の話です。
その日は石膏像のデッサンに取り組んでいました。
ある程度描き終わって、顧問の先生にどうですかと尋ねました。
すると先生は「自分で客観的に見てどう思う?」と聞き返しました。
わたしはちょっと驚いて、「どう…と言われましても、これはわたしが描いたものなので」と返しました。
自分ではどこをどうしていいのかわからないくらいに描き込んでいたので答えられなかったのです。
もうそれ以上は自分の中に答えはなかったのです。
先生は少し笑って、「そうだよなぁ」と言いました。
その後で先生は細かなポイントを指導したのだと思います。
ただ、わたしはその時のやり取りにとても違和感がありました。
きっとあの会話には、顧問の先生の意図が隠されていたのだと思ったからです。
「自分でどう思うか」という問いかけには、「自分からいったん離れて見てみるとどうか」という意味を感じました。
わたしは思ったよりも自分がデッサンと同一化していることに気がつきました。
描くという行為によって、描いたものが自分と切り離せない対象となってしまい、どう見えるのかを言語化できない状態になっていたのでした。
こういうことは経験としていくつも持っていて、
その度に「客観」という言葉が実態のないものに思われます。
言葉としてはわかっているようで、実は知らないのではないかと思うのです。
同時に、
人間関係を築いていく時、他人との距離感に焦点をおくことがありますけれど、
自分が自分とどのくらいの幅を持って見つめられるかということ、
つまり自分と対象との距離感をどのように持つかということが重要なのではないか、と思います。
おそらく、今そのデッサンを見たとしたら、わたしは何だって言える気がします。
もうその場から離れたところにいるからです。
もっと遠くに立てば、また別のことが言えるのでしょう。
どこに立って見るかが大切なことなのでしょう。