放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

問いを立てる。

10月は歩く1カ月だった。

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木々の色合いの変化を楽しみながら過ごしている。

大きく移動を繰り返した9月までと少し行動を変え、

「腰を据えて」ということばを心に留め置きながら自分と向き合うことに意識を向けた。

 

心の向くままにやってみること

後半は対話をする機会も多く、自分に気づきをもたらしてくれる良い時間も多かった。

特に考えたのは、自分の行動のありかたである。

私のさまざまな行動をたどってみると「いいな」「おもしろいな」「挑戦してみたいな」に突き動かされていることが多い。

そういう自分の好奇心でたくさんのすてきな人に出会ってきたし、

それが私の成長を支えてきたのだと思う。

 

問いを持つこと

一方で、もっと大切だと思ったことは「問いを持つこと」である。
いや、問いは持っていたのかもしれないけれど、意識して持とうとはしていなかった、と言った方がいいのかもしれない。

これからは加えて、「なぜだろう」「何がこのようにするのだろう」という問いを持ちたい。

私が「なんのために」行動をするのか、目的を意識したい。

意識するというのは今までできていなかったことをするのだから簡単なことではないのだけれど、

問いを持つことは、これまでの私の行動様式に足りなかったことではないかと思う。

 

問い見つけることが研究のはじまり

この1ヶ月でいろいろ書いてみた中でうまくいかないことが多くあった。

自分が書いたものを読んでもらい、いろいろに聞いて歩くと、やはり問い立ての部分が話題になる。

研究とはそもそも問いがあって成り立つものだというのに。

問い立てを軽視している自分に気がついたとき、学習と研究との違いも自分の中に浮かび上がってきた。

興味関心があれば学習に取り組むことはできるけれど、自分の中で満足してしまうことが多い。

問いを見つけることは、誰かと共有することを可能とし、学習は外にひらいていく。

とても、とても、当たり前なことを言っていて恥ずかしいのだけれど、問いから研究ははじまるのだということを、ここに来てやっと実感する。

 

私は教室にいた人間なのだから、その時の問いをたくさん持っていたはずだ。

そして、それは膨大な学習者の足跡である学習記録の中にたくさん残されている。

そこからもう一度はじめてみようと思う。