放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

他者に開いている記録を

教室で学習記録を作っている時に迷ったことは、個人の学習記録をどこまでオープンにするかということだった。

学校では個人に対する評価が行われる。学習記録には授業で扱ったすべての資料を綴じることにしている。その中にはもちろん、具体的な評価結果が示されている資料がある。その資料を、自分以外の誰かに見られてもいいかという問題だ。

作文やスピーチの評価用紙は良かったポイントや課題となることが書かれるので、他人の評価用紙を見ていると参考になることがある。一方で、はっきりと数値が示されているテストなど、個人の情報として保管すべき物もある。

学習記録を個人の記録として重視するか、他者と共有できる記録として重視するか。学習記録のすてきなところは、とりあえず、授業で扱った資料や自分で作成したものを蓄積しておき、時間が経過してから自分の足跡としてたどれる点だ。学びの実感はその時には気づかないことも多くあり、もう一度振り返ることは大切だ。一旦記録として残しておくことで、もう一度学び直す機会を作ることができる。記録がなければ、時間が経つのと同時に忘れてしまうものである。

ここまでの目的であれば、個人の資料として扱い、他者が閲覧できなくてもいいのかもしれない。しかし、他者に見てもらう機会をつくることにも価値はある。他人の記述を見て学ぶという経験は多くの人にあるだろう。他人の目を獲得することで自分自身を照射することにもなるだろう。他者からの学びの方が自分の考えを大きく変えるかもしれないのだ。いつでもどこでも閲覧可能な記録は、個人の学びをさらに広げる可能性がある。私は、そのように他者に開いている学び手になりたいとも思う。

ここまで考えると、そもそも教室で学習者が手にする学びの質が記録のあり方に影響するのではないか、と考えるようになる。他者の意見を知ることで学びが豊かになる経験をしたものは、学びを他者に開くことに抵抗を感じないのではないか。一方で、他者と比較して優劣がつけられるような学びであれば、記録を開くことに抵抗を感じるのではないか。

学校で学ぶ、教室で学ぶ、と言ったときの学びのあり方が記録のあり方と確かにつながっていることがわかる。