放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

授業進行時には見えない生徒の記述。

教師は生徒の記述の何を読んでいるのだろうか。

 

今日、3年生「故郷」の単元ごとの学習記録の記述を読む。この単元では初読のあと、「故郷」の魅力があるとしたらどこにあるのか説明する学習に取り組んだ。生徒は「登場人物」や「ストーリー展開」「表現」「結末」などさまざまな観点で書く。

単元の途中で、どの観点が多いのかを共有するために、ノートを一旦提出してもらった。私は生徒のノートのメモからどの観点について書いているかを読み、その分布をプリントにまとめた。

この時、私は生徒がどの観点で書いているかを把握するために記録を読んでいる。私の視点は「1時間」の授業なのだ。

思えば、この単元以外でも、私が記録を読む視野は1時間~2時間程度だ。単元全体への視野は授業進行時にはなかった。

 

しかし、当然のことながら生徒の授業の受け止め方は多様だ。改めて全体の記述を読んでみると、どの時間がどうだったのか、生徒によって学習の盛り上がりは異なる。

 

ここで、新たな問いが浮かぶ。授業は一過性のものなのかだろうか。

確かに授業はLIVEだ。教師はその時その時の判断で授業を調整していく。

しかし、記録は残り続ける。あとから読まれる記述はその後もさまざまな視点を与えてくれ、私たちの見方、子どもたちへのまなざしを更新させる。

 

どのように子どもたちの書いたものを読むか。

授業が現在進行形で進められている時にはわからない見方が、今は見えてくるかもしれない。