昨日読んだ生徒の学習記録あとがきに、
「みんながバラバラの作文を書いていた」
「自分とは思ってることが全く違うことが実感させられた」
と書かれていた。
個人思考から全体共有をした時に、どのくらいの学びが学習者にもたらされるのかが気になっているのだが、どうもこのバランス、もう一度再考すべきなのかもしれない。
私の授業は「協同学習」「ファシリテーション」というキーワードで学んだことがベースになっていて、個人思考→グループ対話→全体共有という流れが多く見られる。
その流れの中では、グループになった時に、個人思考がうまくいってなかったり、その日のグループ全体の雰囲気がよくなかったり、さまざまな要因で散漫になることがある。そこでつまづくと全体共有も曖昧になりがちだ。
関係性重視の目的意識から取り組んでいることもあるが、そのメリットを置いても全体共有に耐えるだけの個人思考の深まりがあったのか、少し疑問に思う。
いろいろな授業を見ながら学習者にとって学びが多くなる授業はどんな授業なのか考える。一つは、自分では考えもしなかった新しいことに出会った時ではないかと思う。
教室で学ぶ意味も他者の存在が大きいのであり、その効果を最大限学びにつなげられるように私は考えなければならないと思う。
その一つの視点が、個人思考の時間の持ち方なのではないか。
その工夫は、これまでの多くの実践の中にある。