放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

板書はいつまで美しいといいのか

授業におけるノートは、板書を写す指導から始まることが多く、教師の板書技術がどうあるべきかを課題とする場合が多い。この意識は特に小学校の実践に多く見られるのだけれど、中学校で授業をする私も板書を美しく書けた方がいいなという思いはある。

実際、中学生に聞くと「○○先生の板書はわかりやすくていい」と言う。これはチョーク&トークの講義型授業がスタンダードであることも言えてしまうのかもしれないが、とにかく板書は授業のわかりやすさを示す一つの指標になっている。

でも、学習者が自らの課題意識に沿って個別に調べたり考えたりする授業では、板書は授業の中心にならないだろう。そもそも、板書って教室に1つしかないわけで、基本的には全員が一つの知識体系を概観するためには機能するけれど、個別の学習の成果はノートやワークシートホワイトボードなどを見ることになる。

固定化されたステレオタイプの思考にとどまらず、学習者それぞれに思考することを大切にするならば、板書がベースであること自体考え直さなくちゃいけないのではないかと思ってしまう。