放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

「文学がまたとない教材になり得る」―5月の振り返り

 5月連休明けの学校は,運動会に向けた学級・学年としての取り組みがメインとなる。朝練,外での学年練習,総練習と,非日常の1週間が続いた。

 そんな中で,国語科授業は粛々とルーティーンの漢字テストが始まる。定期テストに向けてテスト範囲も意識するようになり,一斉講義型の授業も多くなる。メインとなる単元は小説『握手』で登場人物の行動描写から人物像を解説することが課題となった。今回は同一課題,同一学習活動で展開したわけだが,やはり個別の課題意識とのズレや関心意欲の違い,活動の進度が気になった。

個別のやり取りの中で読解を促す方法が定着してきた

 ただ,個別の解説文を書く時間では,学習者との対話の場面で今まではできていたかどうかわからなかったことが,ずいぶん意識化されて自分の技として定着していたのではないかと思う。

例えば,行動描写から登場人物の人物像を考える場面でいまいちぴんとこない時,

  • 思考を促す言葉を渡す
  • 動作化を促してみる
  • 描写とは逆の場合を想定してみる
  • 類語辞典などのツールを活用して学習者自身で学ぶ方法を提示してみる

などの具体的な方法を選択して,学習者と話をすることが多くなった。過去に尊敬する先生たちがどのように子どもたちと関わっているのかを間近で見る機会があって,その姿が思い出される瞬間もあった。強く「いいな」と思っている姿は,多少安易ではあるが,ちょっとした場面で自分も真似したくなるものだなと思う。

 そして,自分がどんな言葉がけをしているのか意識してみると「いいね」という承認の表現が多いことにも気づく。何気なく使う言葉の背景には,自分のありたい姿が見えてくるようで,再考する場面が多くあった。こうした教師の言葉を意識するようになった背景には,次の本の影響も大きい。

言葉を選ぶ、授業が変わる!

言葉を選ぶ、授業が変わる!

 
 単元の先にある願いを意識するようになった

 また,課題設定した”人物像”や”行動描写”について,なぜ学ぶのかを考えるようになった。まだ課題設定の言語化はうまくいっていないが,射程は一つの作品を読むことにとどまらず,広く日常生活にも生きる視点で学習の価値を考えることだ。このことを重視するようになった自分がいる。

 ちょうど,全国大学国語教育学会のシンポジウムのテーマが文学教育における「深い学び」だったが,その中で「文学がまたとない教材になり得る」ことが話題となっていた。私たちの生活が言葉によって認識をしていること,そして,読むことによって自分の体験を掘り起こしていることを改めて考えさせてくれる単元だった。