放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

点数至上主義の学習観〜「あとがき集」分析から

あとがき集とは何か

 

大村はま学習記録では、学期の終わりに学習記録を編集する(学習したプリント類を綴じる)。この作業の中であとがきを書く。あとがきと命名されるものの、実際の内容は学期の授業のまとめである。学習記録実践をしていなくても、ポートフォリオで言えば凝縮ポートフォリオのように学習のまとめを1枚にまとめるような実践はあるだろうし、授業評価として感想文を書く活動もあるだろう。とにかく、学習記録ではその学期の学習で印象に残ったことや学んだことをあとがきとしてまとめる。あとがき集は一人一人のあとがきを文集としてまとめたものだ。

 

学期が終わって残るものは多様である

 

30名の学級であれば、当然ながら多様なあとがきが残される。印象に残った単元が同じものでも、そこから何を学ぶか、どの活動、誰のどんな発言が生徒にとって重要になるのかは全く異なる。自分はあまりやる気がなかった、やっぱり国語は嫌いだなど、ネガティブな記述もあれば、伏線の見方を学習して普段の読書の見方が変わったなど大きな変容が見られることもある。

 

振り返るための観点の乏しさか?学習観のズレか?

 

私は自実践のあとがきを読んでいて違和感を持つことがある。「今回のテストはあまりいい点数ではなかったから、次は頑張りたい」という記述である。この記述を見た時に私が思うのは次のようなことだ。

 

1 授業がテスト重視のものになっている?(確かに漢字テストとか定期的に行なっているものがあり、定期テスト前もテスト対策授業を行なっている)

2  さまざまな単元に対して積極的な(印象に残るような)取り組みができなかった?

3  テストは数値化されて自分の成果が見えるものなので記述しやすい?

 

1に関しては、教師の授業理念がどのように学習者に受け止められているかが見える。

2に関しては、1と重なる部分がありつつも、主として学習者の授業への意識が見える。

3に関しては、そもそも記述の観点の選択肢がなく、書きやすい記述に頼った可能性が見える。これに関しては、他者のあとがきを読んだり、複数回のあとがきの記述を繰り返したりすると変容する。

 

ここで言いたいのは、国語科授業の目標としてよりよくある姿がどのようなものなのか、あとがきから見えることである。授業のあり方、日頃自分が授業内で言っていることがあとがきの記述に反映される。そのため、教師の内省を促すものになっている。今回の例では、点数至上主義の学習観に対してのネガティブな見方を認識するとともに、学習者とのズレを確認した。そして、そこから次の授業をどう構想しようかという思考が始まっていく。

 

留意すべきはこのあとがきを学習者の学習状況や前後の過程と一緒に見るということだが、数十時間の授業を経て書かれたものを分析するということは、自分でも意識していなかった授業の実態を知る契機となるのである。