放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

書かれない記述との対面。

学習記録を読み直していて思うのは、空欄の日の授業のことである。

何も書かれていないこのページの日、子どもたちは何をしていたのだろうか。

単元のうち、学習者の気づきが多くある時間とそうではない時間がある。単元の導入期はこれから何をするかを知るだけの1時間もあり、何か新しいことに気づくようなことがないため、記述も淡々とした授業の経過が書かれることが多い。「学んだこと」を書くとするルールの中では書かれない日が出てくる。

しかし、作文を書いている時、スピーチの準備をしている時、何か作業をしている過程での記述を軽視していいのだろうか。作業過程の自分の感情や進度など、さまざまに書くことはありそうだ。そういった記述にも、自分を知るてがかりはあるはずだ。

一方で、私の授業を振り返ってみると、チョークアンドトークの日も多いのが事実で、子どもたちは板書を写していることも多い。その中では、自分の言葉で記録を書くことよりも、板書を視写する力が育つ。

では、どのように記録する力は育つのだろうか。

授業で何が起こったのか、自分自身はその時何を考え何を思ったのか、そのことに焦点をあてて書こうとする視点はどのようにして持たれるのだろうか。

そして、そうした記録はどうあるべきなのか。

書かれない記述との対面は、自分の授業形態を振り返るとともに、記録はどうあるべきなのかという問いを考えさせる。