放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

自分の切実さに目を向けているか。

何気ない同期の院生さんとのやり取りで,自分の過去に書いた原稿を開いてみる。新採用教員を対象とした本だ。

自分なりに自分の原稿のいいなと思ったことを挙げてみると,「切実さ」かなと思う。今となっては忘れてしまったエピソードも,読むとヒリヒリする感じで思い出される失敗として書かれている(苦笑)。いろいろな教師としての日常がある中でその時の自分にとって引っかかったエピソードは,まさに自分の問題意識と隣り合わせだ。書いている時はいつも,自分のいたらなさに目をつぶりたくなる。そんな気持ちと,書くことの意味との葛藤がある。この時の原稿も,書くことによって自分の中で「学び」としての価値を付与することができたし,出来事と距離を置いて自分自身の次の行動を考えることができたのではないかと思う。書き続けなければわからないし,書いた後で時間が経って読み直す機会があることで気づくこともある。書いているその時にはわからないけれど,記録はのちの自分に届くものなんだって,信じたい。

さて,この原稿を読んで感じたことを書きながら,改めて今の自分の書きぶりを見つめる。状況も対象も異なるので書き方は大きく違う。それにしたって,「切実さ」という場所からは少し遠くなってしまったように思う。自分の研究なのに。

いや,今も学習者を前にして「どうしたらいいのかわからない」と迷っていた過去の自分は存在している。しかし,自分のためだけの文章ではないのだ。研究は,誰か道半ばの上に常に存在するという。その道筋に自分をどのように乗せるかが問われているのであって,自分の問題意識がなくなるわけではない。

だけど,どこか味が薄れてしまったような気がするのは,無視できないんだよな。うん。