放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

学会発表が終わる。

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当日の朝,リハーサルしてみたらやっぱり自分でもこれじゃあ伝わらないなって思うことがたくさんあった。わからないものがなんなのかもよくわからなかった。口述試験でも言われた通り,私の書いたものは自己理解に留まっていて、研究としての問いのレベルアップが必要なんだと自覚する。

出てきた分析結果を,「主体的対話的で深い学びとどう相関するのか」とか,「授業改善の材料としてどういった具体的な活用が考えられる」とか,何かとの考察につなげることが必要なのだけれど,結局できなかった。できたこと,わかることを話したいけれど,わかったことは自分の授業がどうだったかで,これが誰かの何かになるにはまだまだ。省察に軸をおいて記述するにしても,実践過程の自分の記録が不足。反省ばかりが浮かんでくる。

 

質問の中では,国語科の研究でいいのか,教育方法学とか教師教育学の文脈で踏み込んでみたらいいんじゃないか,というご意見をいただく。他教科の要素を実感している小学校の先生から見たらやっぱり見え方は違うんだろうな,などと思う。
ただ、国語科の学習としての学習記録を考えると、すこし違う気もしていて,じゃあどういうことが国語科の学習記録と言うことができて,そこではどんな力が育まれるのかとか,もっと考え深めることはあることがわかる。

 

さて、発表が終わってみてやはり課題に感じるのは,自己理解の範疇から研究が抜け出せていないこと。自己完結しているうちは,批判しようにもできない。分析とかいっているけれど、計数の妥当性とか曖昧なことも多い。これからすべきことは,自分の実践の記録を悔いなく残し続けることと,視野を外に向けること,現場の実感を持ちながらも,共感を持って誰かと何かを良い方向に変えるための研究方法を考え続けること。

 

学習記録の実際は全国のいたる所で存在するわけで,教科にとらわれず学習者がどんな学びの実際とともに,どんな記述を残しているのかは,自分の専門として見つめ続けていけたらいいなと思う。