今日読んだ大村はま実践は、長与善郎「地蔵の話」を劇・放送劇・シナリオ・紙芝居・スライドにさせる実践である。
この実践を読んで思い出すのは、UD研究会と獲得型教育研究会である。
どちらも曖昧な情報でしかないのだが、UD研究会に参加した時に「視覚化」「焦点化」「動作化」「共有化」の4原則があって、実際に国語授業の実践で「動作化」の授業をするのを見たことがある。
獲得型教育研究会では、学びをどのように深めるか、表現するかをことば・もの・身体に分けて実践を紹介している。
読解を行う上で、劇化や動作化を通して読みを深めることの実践は現在多く見られるわけだが、実際の授業では、そこまで多くの実践が繰り返されているとは、どうも思えない。
明治図書の『国語科重要用語辞典』でも、劇化について渡辺貴裕さんがその解説している。
一時、戯曲を用いた国語科の学習「戯曲などを読む」「劇などをする」は、1977年版の中学校学習指導要領からなくなり後退することになる。再び文言化されるのは2008年の小学校で「物語を演じたりする」であり、国語科授業における劇化の実践は空白の時代があることがわかる。
大村はまも述べているが、劇化の授業を行う時、本来の目的を見失いやすい。「深く読み込むため」に行っている劇が、「よい劇をつくる」ことが目的となってしまう。そして、教師側が演劇に対して抵抗感をもっていること(私なんかも演劇なんて小学校の学芸会以来やったことがなかった)、だから方法が確立されず、実践するまでにいたらないことが原因だと考える。1単位時間で構成するのも難しい面もあるのだろう。
そこでインプロ(即興)の発想になっていく。どうしても「演劇」というと完成度を高める方向に向いてしまうが、インプロはその場で考えて、失敗も許容する素地がある。何度もトライアンドエラーをくり返す中で気づくことを大切にしたい。
身体を使った学びは多くの論者から必要性が指摘されている。大村はまのことばを借りれば、文学作品を繰り返し読ませ味わせたいなら、「繰り返し読みなさい」「よく味わいなさい」と言わずして、子どもたちが作品に、作者に、じかにぶつかっていくように仕組む必要がある。
私は,さらに子どもたちが自分の学び方の一つとして実感することを大切にした身体を使った学びを手にすることができたらいいなと思う。