放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

「自分で研究する」授業を考えながら思うこと

とにかく,自分で研究する,自分の題目で研究する,ということは,なんという張り合いのあることでしょう。むずかしいことが起こって,困って,苦労して……,そういうこともたびたびです。でも,先生に,友だちに相談し,ああすれば,こうすればと,くふうして,少しずつ進めていく張り切った気持ちは,苦しみながらも,”楽しい”——じっとだいじにしていたいような気持です。(pp.5-6)

大村はま国語教室 第15巻 ことばの勉強会

大村はま国語教室 第15巻 ことばの勉強会

 

どうしてだれも教えてくれなかったのか

 大学生になったとき,突然,「研究」という言葉が自分の問題意識として迫ってきた。大学を卒業するには卒業論文を書かなければならない。卒業論文を書くためには,自分で研究のテーマを決めて,研究しなければならない。

  でも,高校までの私は,大学に入るための点数を取る勉強ばかりしていたし,その「勉強」は早く終わってほしいものでもあった。大学への入学が決まって,やっと自分の興味のある「勉強」ができると嬉しく思った。その時は韓国語の習得が何よりも楽しい勉強で,やはりそこには「研究」ということばはなかった。

 大学に入ってからも,大学で何を学ぶのか?という問いは常にあった。大学の先生たちと交流を深めるうちに,大学で学ぶことと高校で学んだことの間にはとても大きな溝があるようにも思えた。そして,「研究」の初歩の初歩を学ぶうちに,どうして高校までの授業では,自分でテーマを決めて,自分で調べる授業がなかったのだろうと思った。

 厳密に言うと,小学校,中学校で調べ学習はたくさん経験したし,レポートや新聞にまとめる活動も多かった。しかし,どれも時間をかけて作り上げるような,自分だけの楽しみとしての学習ではなかったなと思う。課題として取り組み,終わらせることがゴールになる。そこに,新たな問いは生まれない。

 だけど,自分の横には,ものすごく熱中して楽しそうに研究をしていた学生もいたのだよな,と思う。高校生の私は,あの人は自分とは違って賢い人なんだな,とか勝手に思って自己完結していたけれど,実は誰よりも問うことを楽しんでいたのだろうな,と今なら思う。同時に,学び手として,受け身な自分をひどく恥ずかしく思う。

資料が語る

  大学院に行ってから,問いを持つことや,自分で課題設定して探究する授業に関心を持つようになって,改めて,学習者の「楽しさ」がいかに大切かを考えるようになる。今年度は,じっくり授業を創り直すことに意識を向けてきた。実装はまだまだ難しくて,結局はこちらがあれこれと準備しないと運営できない授業になっている。学習者に委ねるって,簡単なことじゃない。

 しかし,たまりにたまった授業記録や国語科通信を読みながら,その資料が語る熱意に心が動く。試行錯誤の末に,授業が形作られていく。長い時間が積み重ねられている……。こうして,誰かが苦しみながらも楽しく,大切に記録したものが,たしかに誰かに届くことがあるのだよな,と思う。

 

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