放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

「学習記録」には学習者の創造性が込められている 

 国語教育雑誌を見ていると、学習者が書き記すものとして「ノート」という用語が多くの教員に定着していることがわかる。『国語教育』最新号の目次にも「「書く」を習慣づける ノート指導術」といったタイトルが見られる。

 内実を読むと、学習ノートを指す場合もあるし、ワークシートのように書き込み式のものを指す場合もある。とにかく、実践を語る時に学習者が書き記すものを「ノート」と呼ぶ。

 国語教育におけるノートの先行実践を見ていくと、もう何十年も前から「板書を書き写すだけのノートでいいのか」という主張がなされている。自分の考えを書くことを重視し、思考するノートを目指すというのは、今に始まった話ではない。「ノート指導」が話題になる時、教師は決まって生徒の思考の跡が残るようなノートを良しとしてきた。 

在来、読方の学習ノートは単なる備忘録、書取帳として考へられてゐたのでは無かろうか。教師の板書を機械的にノートに為してゐたのでは無いであろうか。(飛田多喜雄『形象理会読方教育の実践機構』第七 學習ノートの實踐形態,p.355,1939年,啓文社)

 大村はまは、備忘録としてのノートや書取帳としてのノートとは区別して、生徒が書き記したものを「学習記録」と名付けた。

問 学習記録を、ノートと言ってはちがうのですか

答 ちがうと言ってよいかどうかわかりませんが、私の気持ちでは、ノートというと、やはり忘れてはいけないことを書いておくとか、学んだことの要点をまとめて頭に入れやすくしておくとか、何か練習をするとか、とにかく、学習に奉仕するーといってはおおげさですが、学習を助け、学習に役立つものという気がします。学習記録、これ自身が学習であり、学習に伴なうのでなく、学習そのものであると思います。学んだことを忘れないように、でなく、学んだことについて、学ばなかったことをも考えるために書くのだと思います。学んだことを理解するところにとどまらず、先へ歩みを進める、少し、おおげさなことばを使えば、創造に向かっていくものと思います。

大村はま大村はま国語教室 第十二巻』p.75 ,1984年,筑摩書房

 一般的なノートと大村「学習記録」の違いを説明するとき、大抵、その体裁の違い(綴じられているか、綴じられていないか)が一見してわかりやすいので第一に説明されるが、記録を書くことで何を目指しているのか、その目的の違いが最も大きな違いである。

 教育実践は、その教師の哲学や学習者の実態に左右され、個別多様な選択の上に形作られる。そこで説明される用語は微妙にズレを生じさせるものであることは自明のことであるが、国語科の授業実践において「ノート」と「学習記録」もまた、それぞれの実践を語る上で、曖昧にされてきた言葉だ。

 大村はまの実践に学んで学習の記録を指導してきた先生の中にも、その実践記録には「ノート」という用語を用いている先生と、「学習記録」を用いている先生が両方いる。どちらがどうという話ではなく、説明の便宜上多くの教師が知っている「ノート」という用語を用いるのだろうが、やはり「学習記録」には学習者の創造性が込められているように思う。

 私が2014年から、生徒と学習記録の実践を続けてきて実感することは次のようなことだ。

  • 今日の授業の記録として何を書くか自分が決める。
  • 自分が感じたことや自分が考えたことを自分で拾う。
  • 学習として価値があるかどうかも学習者によって判断される。
  • 教師の文脈では取るに足らないことも、生徒にとっては何よりも鮮烈で、重要なことが授業にはある。
  • 誰のどんな言葉が自分にとって必要な言葉だったのかも、決めるのは学習者である。

 大村はまは「子どもを知る」ということを重視してきたわけだが(大村はま『教室を生き生きと1』p.20)、学習記録はまさに学習者自身が選択して表現されるものであり、学習記録を読むことで教師は子どもたちのことを知ることができるのである。