放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

全国大学国語教育学会「公開講座2詩の書き方は教えられるか」感想


公開講座Ⅱ「詩の書き方は教えられるか 第1回 詩創作指導の実践とその歴史から」(午後3時〜午後5時40分)

1)詩創作の現場で起こる問題点とは何か?

 

今日の話題で印象に残ったこと

  • 教師の権力と詩創作の問題

 子どもたちはこの詩で満足して作ったけれど,教師としては物足りないと感じてしまう問題。教師が自己をどこまで開示して詩創作の現場に介入するか。そういう意味で,いろんな詩をじゃんじゃん提示するっていうのはいいと思った。それだけの自分の引き出しが必要だけれど,「今はこれが限界」って思いながら,私はいつもそこで決断している。そのときその時で,一個人として真剣に批評する,みたいなこともあって,子どもたちの目の色も変わるのではないか。

 ここは,今年度,寺山修司の短歌を8首選んで,子どもたちとどれが一番いいかって話し合いをした授業のことを思い出しながら聞いた。

  • 評価(評定?)の問題

 ここは正直,自分の表現とは?という問いに立った時点で,みんなAだと思う。新学習指導要領の議論(というか不安)も校内研修でずっとあり,正直この手の話題は消化不良を起こしている。

 そこよりも,後藤先生が提示されていた,学習者の詩に対してのコメントが気になった。コメントをどう書くか,ということの方が,とっても迷う問題だと思うのだけれど,あまりそのことは話題にならなかったような気がする。あと,児玉先生の「現場はそんなに暇じゃないですよ」という一言に,これまでの何かが吹っ切れる(笑)。

  • なぜ「詩」なのか

 後藤先生の「言葉の可動域」「言葉のストレッチ」という表現が印象に残る。後半の方に,後藤先生の方法論がするすると出されていて,ああ,いろんなことを試させている先生なんだなと思って,尊敬の念を抱く。詩には日常の固定概念を揺さぶる力がある。ここではインプロ的だなとも思う。「あれ,こんな予想外の言葉に自分は今出会っている」,「今ここ」を意識することに詩とインプロの相性みたいなものも感じる。

 

2)なぜ実践者は自分の実践を他者の言葉を使ってしか語れなくなるのか?

 自身も実作者である後藤先生の話を聞きながら,自分の実践を学習指導要領を持って語らなければならなくなってしまう学校現場の勘違いを強く思う。でも,もっと実践の選択は,一個人として,生徒と向き合う教師の個人的な経験や感情,信念があって決断されるものなので,私は他者の言葉では語れないはずだとも思う。竹本先生が,熱い思いで実践していいんじゃないかって言ってくれたのは,本当にエールのように感じた。

 そのことを私は20代の途中で指摘されて,学習指導要領の言葉だけを使わずに,教育実践の価値を様々な形で語ることを大切にしようと思い始めるのだけれど,現場で出会う様々な指導案を見ていても,誰かの言葉に後押しされないと自分の実践も語れないような教員になってしまっているのではないかと感じる。

 後藤先生の作品に,なぜ「詩」なのか,というテーマの詩はあるのかな? 興味津々。

 

3)一視聴者として今回の形式はどうだったのか?

 参加というには程遠い,不真面目な視聴者だった。オンラインさまさま。

 そもそも宿泊学習明けの土曜授業&テスト前で,学会の1日目は全然コミットできていない。講座自体も疲れによって途中寝落ちし,前半のワークショップを見逃すという失態。さらに,仕事の関係もあって,移動しながら視聴する形で,参加者としてのモチベーションは本当に低かった。苦笑

 ただ,コーディネーターの澤田さんは面識もあり,提案の中で取り上げている論文を書いた横濱さんと私は大学院同期なので,詩創作の話題は常に身近にあり,私自身としても関心は高かった。児玉先生は,岩手大学で学部生だった時に詩創作の集中講義を受けているし,著作も何度も読ませてもらっている。

 途中から視聴し始めて,後藤先生の純朴さに一気に引き込まれ,どんな詩を書かれているのか興味を持ち,実践者としての葛藤も見え隠れする流れになって,後半から集中して議論を聞くようになった。

 横濱くんとも,オンラインでやりとりをしながら議論を聞けたのも良かった。途中途中で,お互い呟きながらみなさんの言葉を拾って行ける時間は有意義だったと思う。並走してくれた横濱くんには本当に感謝。

 アフタートークも意図的に開示してくださっているのも,良かったと思う。みんな,まだまだ話したい気持ちを持ちながら退室ボタンを押すっていう,理想的な展開になったんじゃないかなと思う。

 

今日のまとめ。後藤先生ともっとお話をしたい。