放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

記録

 2025年になってもう10日目です。年始に入試があると、1年を振り返る余裕もなく過ぎ去っていくものですね。今年も細々と思うところがあれば書き記していきたいと思っています。改めて、本年もよろしくお願いします。

2024年はiPad記録の年

 2024年のブログエントリーを読み返すと、10エントリー。ほとんどは春だった。休まずに働くことが個人的に大事な1年だったので、オンラインの実践交流の場も手放して、ひたすら生活と仕事の往復だった。ここ数年の中でも、頑張って働いた1年だったと思う。

 7月までの7つの単元は自分でも驚くくらいに精力的だったのだが、秋以降部活動を見る機会が多くなったのをきっかけに立ち止まってしまった。1年間を通して単元学習を創造し続けることの難しさを実感する。私のキャリアの中で部活動はいつも鬼門である。

 それでも、iPadには助けられた。タッチペンでの記録を残し始めたことによって、単元計画のメモや、授業途中の気付き、諸々、表立って表現することのない自分の内面の言語化を手伝ってくれた。まとまって書き表すことはなかったが、昨年の自分と比較しながら、1年を見通して、今何に力を注ぐべきなのかを考えたような気がする。

 ともすると、過ぎ去っていく日々の中で、その日その日の出来事や自分の状態、情動の変化を思い出させてくれるのはいつだって記録だった。今も私の手元には、13歳だった私の冬休みの記録がある。25年の月日が経っても、私は自分自身の為に記録することを手放さないだろう。

誰かが使っているありきたりな言葉から抜け出せるのか?ー10月の読書記録

自分を掘り下げる行為

 10月はふっと体が軽くなった瞬間があって、週末に外に出て本屋さんに足を運ぶことを何周かした。おかげであまりテーマの重くない本を短時間で読んでは、派生して次の本に辿り着くことができた。

 三宅香帆さんの新書は、CMのキャッチコピーのように、言葉の切り取り方のセンスがよくてついつい読んでしまう。『「好き」を言語化する技術』では、ありきたりな言葉に終始せず、自分の言葉を探すことを述べている。子どもたちの話すことがあまりにも誰かの何かの言葉である気がしてならない時、自分の言葉って何なのだろうなと思う。三宅さんも、言語習得の本質として言葉は真似ることから始まっていくのだから、人間はそもそも他者の言葉でしか表現は始まらないものだろうとも言っている。でも、それでは誰かに自分の「好き」は伝わらない。そして、自分なりの考えを持ち始める中学生には、自分を掘り起こして言葉にする期間が必要なのではないかと私は思う。

 ここまで書いて、この既視感は山田ズーニーだ、と思い至る。

 時を同じくして、ちゃんみながガールズグループ育成のためのサバイバルオーディションをYouTubeで配信している。誰の真似でもない「自分」オリジナルの表現者であるために、自分と向き合うことの重要性を問うている。借り物ではない自分の表現とかいうものが最近気になっているのだなと気付かされる。

「ほんとう」の学びを問う

 10月の読書でもう一つ強烈だったのは鳥羽和久さんの『「学び」がわからなくなったときに読む本』。甲斐利恵子先生が対談として載っているので、もちろん予約して買って読んだのであるが、思った以上に千葉雅也さんとの対談が今の自分にはとても面白くて、これまた派生して千葉さんの本を読む。

「勉強の哲学」は発刊当時にすごく鮮烈な印象で読んだ気がする。改めて読むと、「知識」との向き合い方を考えさせられる。いわゆる「テスト学力」と呼んでいる暗記中心の「知識」を、教員になってからどちらかと言うと軽視してきた私だが、それでも10代の大半を勉強に注いできた自分の身体は、勉強することで身についてきたのだよな、とも思う。

  似たようなことが、学習ツールとしての「紙かデジタルか」の問いにも当てはめることができて、学校教育の大半がデジタル化していく渦中にいて、やはり紙に書きなぐり続けてきた自分の学習履歴と目の前の学習者を完全にして乖離して考えることは、私にはできないなと思っている。私と学習者は他人なので、同じ存在として学び方を押し付けることはできないけれど、私が切実に価値を置いているものを話すことくらいはいいだろう。

 

 こうやって、MacBookで表層的な思いを簡単に言語化してしまう自分にだって、内心くだらないことだなと思いながら打っている。書いてはいないのだと思う。

 とても反省的になる11月である。

授業づくりを楽しみたい

次の書籍を読んで思い出した。

筑波大学派遣中からやってみたかったことが一つだけある。
学芸大の渡辺貴裕さんらが行っている「対話型模擬授業検討会」だ。

 

上記の書籍で園田友里恵さんがまとめてくださっているので、興味がある方はぜひ手に取ってもらいたい。

対話型模擬授業検討会(以下、「対話型」と略記)とは、東京学芸大学教職大学院において開発された模擬授業検討会のモデルだ。対話型の目的は、「指導案の改善や遂行の仕方の洗練」ではなく、「授業実践に関する問いを浮かびあがらせ、授業者役と学習者役とが共に探究すること」とされている(渡辺・岩瀬2017:2018)。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsste/26/0/26_136/_pdf/-char/ja

 

私自身も、大学院生時代に学芸大附属高校の公開授業に参加した際、渡辺貴裕さんが場をコーディネートしてくださって、有意義な授業検討になった経験がある(この場合は、模擬授業体験まではせず、授業参観した後にそれぞれのグループで「共に探究すること」を目指す対話を中心に行なった)。

「対話型」の何がいいかって、ともすれば授業者VS参観者の「評価される-評価する」に陥りがちな授業検討の場を、授業者役と学習者役が「共に探究する」立場で、授業がより良くなるにはどうしたらいいのかねぇ〜と話し合えることだ。

理論的なことは、書籍にコルトハーヘンの教師教育論により説明されているので割愛するが、園田さんはさらに「学習者になる」ことをインプロの概念で説明しようと試みている。

私たちは、学校教育において頭を使うこと、「考えてから動く」ことを叩き込まれてきた。ここに描いたことは、逆のようである。その慣れない状況に、院生たちも、そして私自身も混乱し、時に不安や恐怖を抱き、考え続けてきた。コルトハーヘンのALACTモデルも、指導案検討に焦点化しない対話型も、行為(Action)から始まる。「考えてから動く」ことに溢れる学校だからこそ、教師教育の場においては「動いてから考える」時間を少しでも確保し、院生たちとその場を楽しみたい。(p113-114)

そう、まずは「やってみよう」と思って、課題に気づいたり、「こここうするともっと良いよね」と対話をしながら、みんなで授業づくりがしたい。

そして、授業づくりを楽しみたい。連盟国語の全道大会を秋に控えて、今、私が最も願うことだ。

 

書くことを続けるのは簡単ではないが、書くことで気づくことは多い〜5月の振り返り

単元学習を作り続けるにはどうしたらいいのか

 4つの単元が終わる。しかし、単元と言っていいほど、一つの課題に沿った地続きの学びにはならなかったなあという自己評価。学習のてびきを作ることも含め、「単元づくり」には準備の時間が必要なのだが、5月以降は体育祭行事等によって教師の体力が削られ、淡々と授業準備に費やす時間が減ってしまう。そもそも、授業づくりって、短時間で答えが出ない。私の場合は「どうしよう、どうしよう」と迷っている時間が長くて、結局決断に至る頃には授業が迫っており、「とりあえず」の形で授業は進んでいく。自分の中で不完全な形でプランを出し続けるってことが、現場とか実践の実情だよなと改めて思う。

素の姿が見えてくる

 2ヶ月を経て、教師も子供も緊張感の張り詰めた4月とは違った姿が見えてくる。例えば、忘れ物や落とし物が多くなる。それを周りがどのように受け止めるかが見えてくる。集団の中では、相対的に誰が多いのかが目につくようになる。こうした中で、私は、小さな失敗をどのように自己理解に繋げるかを考えている。きっと、特別支援的な発想が鍵になるのだろうなと思っている。そして、職員室が多様な価値観で、多様な立場で一つの出来事を見つめて解決できる組織になれたら素敵だなと思っている。

「〜させる」から「〜たい」へ

 甲斐利恵子先生が国語教師として基本的にどのような心構えが必要かを次のように書いている。

いくつも考えが浮かんできますが、次の三つを挙げたいと思います。

①子供の姿を知ろうとする心構え。

②言葉の力を育てることが仕事だという心構え。

③子供たちが「〜たい」と思う授業をつくっていこうとする心構え。

 今の自分にとって、③が身に沁みる。「求める気持ちが学びを引き寄せる」と甲斐先生は続けて書いているけれど、日々のさりげない言葉や授業の仕掛けが「〜たい」になっているかどうかは、おそらく苦しい時期に最も重要な視点な気がする。

 今週末は、この本を読みたい。

 

 

「学習の手引き」を再考しよう

大村はま全集を読み直す

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 今年度は夏までに7つの単元を作ろうと心に決めて、単元づくりに力を入れている。4月は授業びらきの「名前教えて」と詩創作単元の「詩で言葉を捉える」の2つ。ここから体育祭があってとっても厳しい時期を迎えるのだけれど、読むこと単元2つと、書くこと単元2つ、読書単元1つを計画している。なんとか夏休みまでにやり遂げたい。

 特に、今年は「学習の手引き」について考えている。先日、青年国語研究会の総会があって、夏の日本国語教育学会のワークショップについて話題があった。今年度は「学習の手引き」をテーマにするということで、私自身も、もう一度「学習の手引き」づくりについて学び直そうと思うようになった。

 実は、授業づくりネットワークの「個別最適な学びと協働的な学び」に関する原稿を書く中でも「学習の手引き」について気付きがあった。学習が深化する仕掛けとして、「学習の手引き」による種まきが機能しているのではないか、ということだ。大村の「学習の手引き」には、学習活動において考えるための観点が示されていたり、話し合いを深めるための語彙が散りばめられている。多くの生徒は「学習の手引き」を読む中で、自分なりに学ぶべきことを焦点化して学習に取り組んで行ったのではないと考えられる。

 それで、この連休は原点である大村はま全集を久しぶりに読み始めたのだけれど、第1巻「国語単元学習の生成と深化」を箱から出したら、ギョッとしてしまった。付箋がいっぱいだ。

 すっかり忘れてしまったのだけれど、大学院進学前の2017年冬に、私は全集を熱心に読んでいたらしい。自分の記録を読み直すと、一つ一つの単元を分析して、一部は追試もしているようだった。過去の自分の勤勉さに惚れ惚れする(笑)。

 それにしても、改めて大村単元学習について読みながら感動するのは、「情報と情報の関係について」言及する単元があることだ。この辺りは現行学習指導要領の「情報」に関する内容とも関わっていて、1980年代にここまで言語化できるってことに驚きを隠せない。改めて、自分たちが実践していることなど、多くの先人がすでに潜り抜けてきた問題のほんの一部に過ぎないのだなと思う。

 

 とにかく、個別最適な学びをより充実したものになるための仕掛けとして「学習の手引き」が重要なのではないか、というのが今の私の答えだ。では、どのような手引きを私は作ることができるのだろうか。2024夏までの私の探究課題である。

色々考えてしまうのは、春だから?〜4月の振り返り

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1、男女混合名簿からの見直し

 今年度より男女混合名簿に移行した。制服もブレザー制服になり、男女に関わらずスカートやスラックス、ネクタイ、リボンを選べるようになっている。前任校も男女混合名簿だったが、実際には男女に分かれて体育の記録測定や、保健関係の測定が行われており、旅行的な行事においても部屋割りは男女で分かれ、人員確認をする際もやはり男女の人数で把握することが多い。結局はいろいろな場面で男女に分かれて活動することが多いのが学校教育の現状である。

 先生によっては、「〜くん」「〜さん」を使い分けている先生もおり、私なんかは「〜ちゃん」も積極的に使っていきたい人間だが、それでもこの流れの中では、何となく男女の性差をつける呼称に自己規制がはたらくようになった。最近は「〜氏」という言い方に落ち着いてきている。


2、教室環境の整備

 時間割ホワイトボードを1年ぶりに復活させる。昨年度はGoogleスライドで時間割を作成して、教室のテレビに常時自動再生させていたのだが、今年度は改修工事が途中から入ることも考えると、持続可能性を考えて、アナログの選択をする。でも、すでにデジタルの方が圧倒的に楽だったなぁと思っている。実際、子どもたちの忘れ物も多いような気がしているので、どのくらい継続するかは正直自信がない。


3、全ては国語につながっている

 誰しもが新年度の体制に不安を隠しきれない時期だった。昨年度の顔見知った仲間に会うと安堵の表情を浮かべる子どもたちも少なくない。クラス替えは大きな環境変化だと改めて思うし、変化・成長のチャンスでもある。

 私自身も大きく働き方が変わった。特に、昨年度から、私は学級経営や学年経営について考える機会が多くなっている。私の本丸は国語科授業であって、それ以外の仕事に関しては結構ドライに対応をすることが多いのだけれど、実際にはどの業務も国語につながってくることに最近ものすごく考えるようになり、全ての業務を安定して運営できることが自分のもっともやりたいことに近づく道のりであるとすら思っている。

 もちろん、働き方改革を背景にして、ワークライフバランスを考えたり、定時に退勤しよう・計画的に年休を取ろう、と積極的に推進していきたいとも思っている。教師が幸せであることは、それだけで子どもたちに与える影響が大きい。

 ただし、どの教員も働き方改革の一定の枠でおさめられるほど、教師の願いは狭いものではない。猛烈に授業研究に邁進する先生もこの世の中には存在するわけで、「働き方改革だから」と、本来この仕事でやりがいを感じる部分の時間を奪われるのは違うよなと思う。


4、子どもとの関わり方

 4月の職員室は、先生方の生徒への関わり方が相対評価されていく過程が面白い。攻めを基本とする教員の在り方に対して、私は受けを得意とする教師なんだと気づく瞬間がある。それが良い場面もあるのだけど、弱点となる部分もわかってきて、自分から仕掛けることを今年度の課題としたいなと思っている。あと、圧倒的にユーモアが最近少ないので、叱ることとほぐすことのバランスをよく考えている。

 

5、読書1万ページへの挑戦

 ICTを活用した教育の推進に力を入れるようになって、読書がおろそかになっている。今年はもう少し、自分自身に読書教育の推進を課したいと思っている。手始めにGoogleサイトを使って、読書記録の蓄積をやってみたが、どれくらい継続できるものだろうか。可視化されると少しだけ達成感のようなものもあり、冬まで続けばいいなと淡い期待を抱いている。


6、「ふしぎ」という言葉で耕される探究心

 教科書教材の金子みすゞ「ふしぎ」の授業に入る。あすこまさんが記録していた全国大学国語教育学会で行われた詩創作のワークショップからヒントを得て、フリーライティングやマップ作りをもとにした詩創作単元を計画した。

 結果として、詩創作よりも、「ふしぎ」という言葉から耕される「どうして〜なのか」「なぜ〜なのか」といった、探究の問いが生まれることが面白かった。一人一人がどのような問いを持ってこれまでの生活を送ってきたのかが垣間見えて、子ども理解にも繋がる単元となる。

 「「ふしぎ」という言葉について考えるのは、「哲学」みたいだねぇ」という生徒のつぶやきが印象に残っている。

授業びらき「名前教えて」

単元1「名前教えて」4/15-4/19

【授業のねらい】

・聞き手を惹きつけるスピーチの工夫について、小学校までの学びを実践してみる。
・一人一人の名前にはそれぞれに固有の意味や思い入れがあることを知る。
・クラスに自分を拓く。自己開示する。

【授業の展開】

1時間目、私の名前の由来スピーチ、ペアで練習
2時間目、1分間練習、前半組スピーチ
3時間目、後半組スピーチ
4時間目、スピーチの極意作成

【振り返り】
・昨年度までの「名前教えて」は、私と生徒の対話形式だった。そのため、負荷も少なく、「よろしくお願いします」だけの人もいた。たった1時間だけの授業なので、記憶に残っていない生徒も多く、1年間を通じて流されてしまった感があった。今年は、1分間スピーチ形式で、チャレンジングだったが、人前で話すことにさほど抵抗がないだろうという見込みは持てた。記録も残しながら聞いた。それでも、前半組は動画を撮るだけしかできなくて、後半組しかメモは取れなかった。メモを取りながら聞くと、改めて何を学ばなければならないのかを考えさせられる。
・まとめについては、「スピーチの極意」として全員のスピーチから抽出できるスキルをまとめたけれど、私が求めるものは、もっと体系的なものだったように思う。学習用語を網羅したい思いがジリジリ感じられた。まとめるための時間を20分程度しか取らなかったので、全て網羅するなんて授業の設定的に無理だし、授業びらきに求めることではない。それにしても、スピーチにおける学びを、解としてもっとくっきり示せないものか、と思った。活動を一般化して、学びに落とし込むことが必要だと感じている自分がいた。
・デジタル学習履歴として動画の記録を撮ったが、100名以上の動画、いつどう活用するのだろうか。一人一人を見たいと思うけれど、それは20人くらいの受け持ち生徒だったら可能なのであって、100人とか、担当している生徒の数を考えると、できることとできないことがある。できることを考えると、小さくなってしまうのが、虚しい。
・ある生徒が「他に専門用語はありますか」と聞いていた。スピーチにおける技を学習用語として身につけることに私の関心が注がれている。それと同時に、「アイコンタクト」「ジェスチャー」「インストラクション」……どれも外国由来だなと思う。スピーチ自体の成功イメージがTEDとか、スティーブ・ジョブズとか、日本人のスピーカーじゃないもんな、と思う。もっと、日本人のスピーチモデルで素晴らしいものに触れなければいけないような気がした。音声言語に関しての日本の教育についての関心が生まれた。