前回、「寄り添う」と「低く見積もる」の違いについて書いた。子どもの困り感に寄り添いながらも、「その先を生きる人」として捉えることが教師の関わりの質を決める、という話だった。では、子どもたちをその先まで見据えるために、教師には何が必要なのか。『授業づくりネットワーク』53号の鼎談を読みながら、その問いを引き続き考えている。
学習者の言葉は、実践研究に何をもたらすのか。
鼎談は、岩瀬さんとその教え子である寺内さん、石川さんの三者によるものだ。考えさせられるのは、この企画の構造そのものである。実践研究における学習者視点の言葉の重さを、改めて感じさせられる。教師が語る実践の言葉と、学習者が語る学びの言葉は、同じ出来事を全く異なる視点で映し出す。今回のような学習者視点の言葉をどれだけ大事にできるのかが、実践研究の質を左右するのではないかと思う。
昨年度、名寄市立大学の郡司さんと研究会でご一緒する機会があった。郡司さんといえば、『たすく』という名著を出版されている。自閉スペクトラム症の子どもと家族の物語を通じて描かれるのは、人の成長が一年間や一つの出会いだけで完結するものではなく、長いスパンで、しかも多様な人との関わりが複雑に絡みあいながら変化していくものだという事実だ。
時を同じくして読み進めていた渡辺雅子さんの『共感の論理』では、教育の効果は長いスパンで評価・再検討されるものであり、「近代の矛盾を丁寧に検証し、次の時代を予測し、その上で新たな時代に必要な教育のかたちを構想することが求められる」と述べている。一時間の授業や一年間の学びの成果だけで教育を評価しようとすることへの問い直しは、郡司さんの『たすく』が示す視点とも重なる。
授業づくりネットワークの「8年後に再び」という企画が示すものは、教育の長いスパンそのものだ。8年前に岩瀬学級にいた学習者が、8年後に自らの学びを語る。その言葉の中にこそ、教育の長いスパンが宿っている。
教科の専門性とは、何か。
では、子どもたちを長いスパンで見るために、教師には何が必要なのか。長いスパンで見るためには、まず今の姿を見る力が必要だ。その力こそが、教科の専門性ではないかと思う。
鼎談の終盤、岩瀬さんが「教科の専門性はキモだと思います」とはっきり言及したのは、自由進度学習やカンファランスを実践する文脈の中でのことだった。個別の学習と向き合う時、子どもの学習状況を把握するためには、専門的な観察と読み取りが必要になる。
国語でいえば、どんな語彙が獲得されているか、どんな論理構造でこの子の思考が動いているか、などがある。しかし、子どもたちと話していると、何も言えない時や、これはどうしたもんかなと思う時もある。そんな時、私は程よく撤退する方法を取るのだけれど、日本屈指の国語教育実践者のカンファランスを見ていると、さまざまな視点で評価や手立てを手渡している。その姿を目の当たりにするたびに、愕然とする。その差がどこから来るのかを考えると、教科の専門性という問いに行き着く。子どもの学びと向き合う時、教師の引き出しの多さは、そのまま子どもへの関わりの幅になる。
ただし、教科の専門性は、固定された知識や技術の蓄積だけではないのだろう。社会の変化が激しい今、子どもたちが生きていく世界は、教師自身にも見えていない。一人の人間が子どものすべてを見取ることはできないし、完成された専門性など存在しないとも言える。
だとすれば、改めて、教科の専門性とは何か。それは、子どもの今の姿の中にまだ育っていない力の兆しを見取り、面白がる眼差しではないか。語彙の広がりや表現への意欲、こうした兆しは一時間の授業で完結するものではない。教師は超人ではないからこそ、兆しを面白がりながら、子どもや社会の変化に応じて問い直し続ける。その姿勢そのものが、長いスパンで子どもたちと関わる教師の専門性ではないか。







