放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

2月にあったこと

ビブリオバトル

勤務校では委員会主催によるビブリオバトルがあり,今年度は総合の時間が余っていたので,時間をもらって(無理矢理?)授業をした。

学年全クラスで2時間,選書・リハーサルの授業を行う。

プレゼンの経験もできたし,選書から見える相互理解にもつながった点が良かったと思う。

一方で,やっている最中は読書経験の格差が気になってしまった。

図書の仕事は,全体への働きかけや環境整備も大切なのだけれど,いかにあの子やあの子に本を届けられるかなのだなぁと思う。

その一人一人と授業を通してつながっているのは,私。

いろいろな子の紹介する本を聴きながら,どの子もお気に入りの本を持ってビブリオバトルを迎えられる、そんな読書指導が,私の仕事,と思う。

 

学年末テスト

2月22日だということもわからないくらいに、採点業務で頭がいっぱいだった。

丸つけは,いつもいつもしんどい。

早く終わらせたい気持ちの一心なので、意味を見出せない時間を過ごす。

テストを介して生徒と向き合えばいいのだろうけれど。

私には難しいことだ。

 

土曜日特設授業

土曜日は,特別な授業をする。

今回は生徒と即興で作る授業。

 

ブレストの体験をしながら,みんなで話し合って1時間の授業を作っていく。

これまでの授業体験で楽しかったこと,面白かったことを聞く。

複雑な気持ちになったのは,どうやら道徳の桃太郎ディベートが,生徒にとって楽しかった授業だったらしいということだ。

国語の授業ではなかった(苦笑)。

結果,2クラスは某テレビ局,夕方の地方番組の1コーナーをオマージュした「お絵かき」による国語授業の振り返りに。

残り2クラスは「休日の過ごし方はインドアがいい/アウトドアがいい」や「ゲーム時間の制限は必要か」といったお題でディベートをする。

その日の生徒の多くが参加したいと思える授業ってどんなものなのか,やってみてわかることが多かった。

 

大雪による臨時休校

学校が臨時休校になると,教師も生徒もほっとする。

「休みたい」と思う毎日が,どれだけ息苦しいのかと思う。

空を見上げる時間が欲しいと思う私は,やっぱり,「疲れている」ということなのでしょうか。 

臨休明けは,みんなが大雪の中でどんな1日を過ごしたのか,

走れメロス」の文体を真似しながら創作文を書いた。

掲載の許諾をとって,これらの創作文は今年度最後の文集となる。

それぞれの1日のバリエーションはもちろん多様なのだけれど,

学校が休みになって,「やったー」と思う,この感覚。

コロナでの臨時休校も相俟って,学校という場所の意味は,いよいよ体感覚として私たちに迫っている。

 

学校を,もっと,楽しい場所にする。

そのために,自分のできることをする。

まずは,ここから。

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また1年が始まる。

GIGAスクールの研修がはじまった。

昨日,校内研修で教師用タブレットPCの講習会を行った。少し前に全教職員に配布され,3月には生徒用タブレットも導入される。全国でこうした動きが同じように進んでいるのだろうなと想像した。

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私個人の感想で言えば,早く使えるようになりたいな,だ。

大学院で学内のメールやクラウドを通じた課題提出や学生間の意見交流を行って学習効果を感じていた。中学校にもできる環境が整えばいいなと思っていた。

学習記録も,デジタルポートフォリオの実践なんかを見ていると,分析やデータ化,生徒同士の共有がしやすくなる。紙ベースだと,毎時間集めて返却して,の過程が結構な負担だったので,クラウドにそれぞれの生徒が入力するようになれば,1時間ごとの経過変化も見えるようになるし,毎時間の授業の課題も確認しやすくなるだろう。教師側の授業改善のスピードも早めることができるのではないかと思っている。

しかし,これは私のような紙ベースでも毎時間の記録を書くような指導を行っている変な教師だから言えること。また,私自身は,大学院でGoogle Schoolのさまざまなアプリを学習者として使う機会もあったし,「そうそう,これ使えると便利なんですよね」とすぐに思える。きっと,大学を卒業したばかりの先生も,実際に学生時代に触れてきているだろうから,こうした対応に明るいだろう。そうでなければ,もう色々な変化についていけるのだろうかという不安ばかりになる。

気づくと,生徒の個人用タブレットの導入と新学習指導要領の改訂による評価の観点の変化など,2021年度は中学校の教員にとって変化に対する不安の多い1年になる。そもそもの変わる目的を徹底して知る環境にないため,「どう使うのか」「どう評価すればいいのか」ばかりが関心ごととなってしまいがちだ。

どうして今,こういう状況になっているのか,それを念頭における学びをしていかなければ,結局,何も変わらないことになってしまう。

日本の「学力」とは何だったのか

2009年に中学校の教員となった。

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大学の国語科教育学の授業では,もれなくPISAショックの話題が上がる。

私の国語科教育の学習はPISAショックで揺れる学力論から始まっている。

教授の考え方の影響もあって,道徳的に読むことへの批判,「論理的」「科学的」に読むことの重要性を信じていた。

フィンランドの教育に関する書籍もよく読んだし,国際課程だったこともあり,パラグラフリーデイングの授業方法にも影響を受けた。 

今,振り返ってみると,明らかに,それ以前の国語教育史というものが抜け落ちいていることがわかる。知らないって本当に恐ろしい。

外から入ってきた学力指標が,これまでの教育を否定したわけだが,では,これまでの教育は本当に間違っていたのだろうか。

日本の教育で培ってきた学力は何だったのか。

 

これまでの歴史的に形成してきた文化や生活様式,そこから生まれる思考のあり方はその国々で異なるものだ。

どれだけ私たちが諸外国の先端と思われる教育方法に学んだとしても,味噌汁・ご飯の食事が一番落ち着くように,私たちの地に足のついた学びを作り出すことが重要なのではないか。

 

かといって,多くの人が「うーん」と思い続けていた授業が再生産されることにも私たちは心底うんざりしている。

今,私たちが立っている場所から地続きで繋がっているこれまでの教育と,その結果生み出されてきた「学力」を見つめ直した時,この先の道筋も見えてくるのではないだろうか。

 

縄文文化学習のための読書記録

矢島新(2019)「ゆるカワ日本美術史−ヴィジュアル版」

ゆるカワ日本美術史<ヴィジュアル版> (祥伝社新書)

ゆるカワ日本美術史<ヴィジュアル版> (祥伝社新書)

  • 作者:矢島 新
  • 発売日: 2019/02/01
  • メディア: 新書
 

 日本美術史を「ゆるカワ」という観点で概説した新書。どこまでを「ゆるさ」「かわいさ」として括るかは主観が伴うが,書かれないものを思いながら読むと「ゆるカワ」には「リアルさ」「壮大さ」といったものが欠けていることが見えてくる。

 縄文時代土偶は,本書の中で「ゆるカワ」の起源として読むことができる。「きもカワ」寄りの指摘もあり,読みながら最近の少年漫画でよく出てくる不気味な物体「異形」の特徴も既に見られるような気がしてきた。日本文化における人体表現は本当に不気味だ。

 

山岡信貴編(2018)「PHOTO BOOK ハマる縄文!?」

ハマる縄文!?: PHOTO BOOK

ハマる縄文!?: PHOTO BOOK

 

 「縄文時代が実はどうかなんて,どこかの時点でどうしてもわからない。」(p.94)

 

 この実感は,縄文について知ろうとすればするほどついてくる感覚だ。どの本を読んでいても,どの土器や土偶を見たとしても,出会った人の感覚の鋭さが際立つばかりで,結局のところ私たちの想像の域を越えることができないのではないか,と思ってしまう。

 私たちは土器や土偶を見て,何を思い浮かべるのか。その問いを真っ向に表現した1冊。

 

こんだあきこ・スソアキコ(2018)「おもしろ謎解き『縄文』のヒミツ」

 図解まんがで圧倒的にわかりやすい。また,4人の専門家にインタビューする形式で構成されていて,多角的に縄文について知ることができる。各学問領域の研究方法の違いも見えておもしろい。

  1. 分子人類学(わたしたちのDNAの中に縄文人はどのくらい残っているのか?)
  2. 先史生態学縄文人は何を食べていた?)
  3. 植物考古学(縄文時代の編みかごから何がわかるか?)
  4. 考古学(土偶に秘められた縄文人の願いとは?)

 

 それぞれの分野で明らかになる問いを,具体的な研究方法の概説も交えながらまんがで解説している本なので,研究ってどんなものなのかを知るきっかけにもなるかも。土偶の図解,博物館・資料館の紹介,参考文献などの情報ももれなくあって,読後の調査活動にも役立つありがたい1冊。

 

タマと佐藤国男(2018)「タマと博士の縄文講座 土器と土偶の謎を解く」

タマと博士の縄文講座 土器と土偶の謎を解く

タマと博士の縄文講座 土器と土偶の謎を解く

 

  マニアックな人向け(笑)。「オツベルと象」や「銀河鉄道の夜」などの宮沢賢治作品の版画絵で有名な著者。版画絵は函館の街中で時々展示会があり,何度も見たことがあったが,佐藤さんがこんなにも縄文について詳しい人なのかと初めて知った。縄文文化について並々ならぬ情熱が感じられる1冊。

「僕たちの学び方改革ってないのかな?」ー1月の振り返り

 生徒が見える授業

1月は「モアイは語る」の授業がメインでした。 

keynote.hatenablog.jpkeynote.hatenablog.jp

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もっとじっくり内容理解をした方がいいのかなあという葛藤もありながら,何時間もかけて本文を読み続けることで本文の面白さが半減する気もして,活動を取り入れながら全体を読み返すことを選択した。 

活動してみると読み取りの課題が見える場面もあり,そこは効果的だったと思う。

 

学年末テストも近いということで,助詞・助動詞の学習も並行して進める。土曜授業の日は生徒も朝からテンション低めなので,学習ゲーム形式にして授業をした。

今回は「ウソ日記」で何個の助動詞を使えるか競い合うゲーム。

ウソ日記は,自分のなりたいように作文できるので,

「今日学校が休みだったので…」「憧れのアイドルに会えた!」「やっとコロナが終息しました」

…と,生徒の願望が垣間見える授業になった。

 

修学旅行に向けた取り組み

国語科授業以外では,来年度の修学旅行に向けた取り組みに時間を費やした。

準備のために下見をしたり,資料を集めたりして学習計画を立てていく。

まずは,自分が学んでみて,どんなところにこの学習の面白さがあるのか体験してみる。

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今回の私が担当する学習は「縄文文化」。

故郷の縄文文化交流センターが修学旅行の行き先となり,授業づくりに対するモチベーションも高まる。

ただ,私ひとりが盛り上がらないように,生徒たちに面白さを譲り渡すにはどうしたらいいのか,

仕掛け作りを考えるのがこれからの課題だ。

 

2月,3月と,14歳の不安定な心の動きもある中で,他者との交流からどのようなことを学ぶかもポイントだ。

一人一人の良さと課題を見つけながら,一年後,二年後…と精神的にどこまで成長できるのかが楽しみである。

 

「休む」ことの価値

北海道は本州よりも冬休みが長いので,1月は半月しか登校日がない。

それにも関わらず,コロナの臨時休校の影響で,授業時数確保のための土曜授業が今月は2回も行われた。

そのうちの1回は食育弁当の日と名付けられて,弁当持参の6時間授業だった。

子どもたちだけに限らず,お弁当を作る保護者も大変だ(本当は生徒が自分で作るのが理想だがそんな余裕はない)。

合わせて,スキー学習も重なり,体力的にも厳しい2週間となった。

教師も生徒も疲弊している。

 

昨年から,自分の体調管理のために計画的に年休を取ることを心がけているが,

やはり大変な時期こそ担任不在の日は子どもたちの印象にも残るらしく,

「先生,また明日休みですか」と冗談っぽく言ってくる。

そんなこともあったので,ある日の帰りの会で「休む」ことの価値について話をする。

このご時世,体調変化が見られる時は無理せず休む選択をすることが推奨されるようになって,ガンバリズムを大きな声で唱える人はいなくなった。

それでも,簡単に休みを取ることに対して不寛容である職場も多い。

 

その上,生徒はそう簡単に欠席の決断はできない。

だって,休む=学習が遅れてしまうのだから。

私たちは自分の仕事のペースをある程度コントロールできるが,

授業は自分のペースで進むわけではない。

よく「子供の仕事は勉強」なんて言うけれど,「働く」ことと「学校で学ぶ」ことは違う。

 

ある授業の雑談で「働き方改革」の話になった時,授業が終わった後,

「僕たちにも働き方改革はないのかな」と生徒が言った。

「君たちは学校で働いてるのではなく,学んでいるからねえ」と私。

「では,僕たちの学び方改革はないのかな?」と生徒。

 

生徒自身が,今の現状の学び方に対して一番の問題意識を持っている。

 

説明的文章の内容を理解するためのちょっと変わった方法

1月の授業で,光村図書中学2年,安田喜憲著「モアイは語るー地球の未来ー」を読みました。

 

「ダウト!」

本文読解の授業の1時間目は,黙読→リレー音読をした後,2周目のリレー音読で「ダウト」をしました。

「ダウト」は,本文とは違う言葉に変えて読み,違いを見つけたら「ダウト!」と宣言して異なるところを探す,というゲーム。クラスを半分に分けて,一度目に音読した箇所を一部変えて読んでいいというルールが加えられ,もう一つのグループが教科書を見ずに一読した記憶から間違いを指摘します。よく聞いていないと間違いに気づけないので,聞き取りの授業にもなります。

中学生になるとわざわざ間違えることに抵抗のある生徒もいますが,みんなで楽しもうとする雰囲気があるクラスでは絶妙なダウトが出て,子どもたちの発想は面白いなあと思わされます。とあるクラスでは,「人口は百年ごとに二倍」という部分を,「人口は1週間ごとに二倍」というダウトがあり,みんなで想像して驚きつつ笑ってしまいました。

 

この辺りの実践の系譜は読書教育で実践し尽くされてきたものだと思います。

私自身は読書教育に関して疎いので,今後もう少し勉強したいなあと思っています。

読書へのアニマシオン―75の作戦

読書へのアニマシオン―75の作戦

 

 

モアイになってみる

次の時間は,ホットシーティングです。ある役どころを決めて,その人になったつもりで質問に答える活動です。

こちらは石川晋先生が授業提案で行っていた実践の追試です。完全な追試ではないですが,文学的文章でのホットシーティングをすることが多いのに対して,論説文でホットシーティングをするところがこの実践の面白いところです。

ただ,やってみるとわかりますが,論説文とはいえ,歴史的な経緯を説明する部分があるこの教材では,筆者による歴史というストーリーが作られているわけですから,役になってみることが方法として合うのは納得するところです。

 

今回は,グループで「モアイ」「モアイを作ったポリネシア人」「イースター島の森」「筆者」の4者になるという設定にしました。筆者に関しては,あまり有効に機能しなかったので,別な設定にした方が良かったかもしれません。

ただ,森側からしてみると,「木切りすぎなんだよー」といった恨み節が学習者の言葉として語られます。ポリネシア人はそれを受けて反省をしつつ「生きるのに必死だったんだ」と弁明します。この辺のやりとりで盛り上がります。イースター島での出来事が,少しだけリアルさを伴って言葉になっていきます。

また,やってみると,過去なのか現在なのかの時間の設定が必要だと気づきます。そもそも,本文に現在はイースター島にヤシの木の森林は消滅したとあるわけですから,今は亡きものとして語らねばならないのです。

その辺の読みの確認ができている生徒とそうではない生徒がいることがわかるのも,この活動のおもしろいところでした。

 

学習者の読みの理解がどういう状況なのか見えることが,学習活動として大切なことだと思います。そして,教師として起こっていることを見取り全体で確認する,そうすることまで含んで,楽しく理解の深まる授業になるのではないかと思います。

 

 

 

助詞の違いで話し合う2

モアイは語る と モアイが語る ではどのような違いがあるのだろうか?

 

それぞれに自分の考えを書いて、立ち歩いて交流する。一番納得する解を選んで全体交流の流れだ。

しかし、最初のクラスはメモをする準備を忘れて不完全燃焼。また、誰の解答に関心が向くのか、人間関係が露呈する形になって、学習としては本来の目的も薄れる。

少し指示の改善をして、次クラスからはメモを持たせて見て歩く交流に変更。全員の解を時間をかけて黙々と読むことの価値も話をする。

 

こういうことをちゃんと話さないとダメなんだよな、と思う。授業の「持ち寄る」を成立させるためには、相互に責任があることと、お互いの考えに対して誠実に対峙することが必要だと思う。

 

単なる意見の交流にしてはいけない。

思考を伴う活動にしなくちゃいけない。