放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

倉澤先生が大村はま先生を「超人的能力」と表現したこと。

大村はま国語教室1」を読んだ。
解説は倉澤先生である。
大村はま氏の研究に対する姿勢と裏側を具体的なエピソードとともに書いている。

その章立てで「2 超人的能力」とある。
ここでは大村氏が講習会に参加した際の速記力、丁寧さを見て
貪欲に学ぼうとする大村氏の姿を描いている。
また、単元学習生成期にもかかわらず、
今に通じる授業開発を多く残していった功績に対しての感嘆も述べられる。

ただ、「超人的能力」と表現してしまうことで、
読者の大半が「自分とは違う」と距離をおいてしまうのでは、と思う。
カリスマ教員に対する批判もよく聞く。
(例えば、校内で一部の特殊能力を持った人だけが活躍し、
その他大勢の教員が仕事しづらい職場環境になること)
「超人的能力」が子どもたちはもちろん、職場の環境にどう適応していくかは
今の学校現場で切実な問題となっていると思う。
周りから高い評価をされる教員が排除される現場もおかしいと思うし、
その影で生きづらい教員生活を送るのも果たしてどうなのか。

子どもたちの協同学習への懐疑も、似たような構造で私の中に疑問として残っている。
この倉澤氏の表現に対しても、私は違和感を持たずにはいられない。

なんのためにあなたは書くのですか?

書くことでわからないことがわかる。
わからないこととわかることを自分で知るために書く。
書くにはさまざまな意義があるけれど、今のわたしに必要なのは、自分を知るために書くことだ。

このページを読んでいる方と共有できないことも多いかもしれない。
自分のためなら公開せずにいれば良いのだと言う人もいるだろう。
しかし、それではわたしは満足できないのですね。
頭の中にあることを表現しつづけたいのです。
外に広がる大きなうねりの中で、あがいてみることを選択したいのです。