自分の学習記録の物足りなさは、書くことへの信頼の欠如かな、と思う。それは、ことばへの信頼の欠如とも言え、嬉しくもあり悲しくもある。更新するには、捨てなければならないものがある。できるだけ抱えて歩きたいと思っても、そんなに技量がないこともわかっている。
日常の中にある教育実習と教員採用試験
自分にとって過ぎ去ってしまった経験が、毎日顔を合わせる院生にとっては切実な日常だったりします。
5月、6月、と夏が近づいてくるにつれ、修士2年生は修士論文の本番に足を踏み入れるような発表の場があり、それと同時に就職のことも考えねばならず、行動を起こさなければならない現実があります。最近は教採対策の会話がよく聞かれるようになりました。
「こうなりたい」という信念を強く持とうと言うのは簡単ですが、なかなか今ある自分の日常から想像するには学校現場の実際が遠く、ビジョンを持つことに苦労しているなぁと感じます。そして私自身もそうだったんだなぁと、今なら思えます。
何人かの学生から教育実習の話を聞いていると、「ギャップ」ということも考えざるを得ないようなエピソードも多々あります。何に一番困るのかは人それぞれなので一斉指導は難しいなとつくづく思うのですが、それでももう一つ小さなステップがあるかどうかでだいぶ違うのではないかと思うこともあります。
ああ、これって大学生でも中学生でも一緒だと気づくのですが、決して能力がないとか、最初からできないと決めつけているわけではなく、周りの設定に無理があるなと感じます。
実習も教採も過ぎ去ってしまうと多くは1回だけのイベントですけれど、当事者にとっては結構負荷の大きいイベントなんですよね。目の前にあることは大きく変えられないことが多いですけれど、自分にとって必要な成長のプロセスになるにはどうあったらいいのかということをちょっとだけ考えてしまいます。
学会発表が終わりました。
パフォーマンスとしては課題だらけですが、発表する機会をもらえたのは本当に有難いことでした。新たに勉強したいことも見えてきて、学びの発展を感じました。
ストレスが歯にきている。
構想発表会が終わる。
研究の目的を言語化すること、
どのような立場で問い立てしていくか方針をつかんだこと、
やっとスタート地点に立てたような気がする。
発表会ロードはまだ続く。
記録と評価の関係は?
自分のルールとして、記録を書く際に字数の指定を設けていない。そのため、1行で終わってしまう日もあれば、空白の日もたくさんある。
そのような習慣の欠点は、あとで見返した時に「この日は何をして何を考えていたのだろう」と思う日が多々あることだ。意外とその日の実践におもしろい事象があったりして、もっと詳細に記録を取る癖をつけるんだった…と後から後悔することも少なくない。
一方で、個人的におもしろいと思うのは記述量が多くなった日を後から分析することだ。一つのおもしろい事例として、「評価」が関わってくる。自分にとってうまくいったとか、もっとこうすればよかったとか、評価付けをしようとする際に自然と言葉が多くなる。「他者との交流」もキーワードで、誰かから学んだことを記録してあることも多い。そこには自分のパフォーマンスと照らし合わせて、他者のパフォーマンスを見る目が生まれている。
これは生徒の記録でも同じようなパターンが見られる。特に、他者から学ぶ傾向が強い生徒は、記録にもそのような表現が目立つ。
今はまだうまく言えないが、教室での学びと記録の表現と、どのように関係づけられるのか考えたいと思う。