放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

すべては語れない。では、あなたは何を選ぶか?

実践の継承について考える機会があった。

私達が他者とのコミュニケーションをするときに、情報のすべてを理解することが不可能なように、私以外の誰かがクローンのようにまったく同じ実践をすることは不可能である。

実践者自身のライフヒストリー、持っている特性、おかれている環境、学習者の状況…さまざまなことを考えると、実践の再現とは、とても難しいことだ。

しかし、教育実践では、他の先生の授業を見て「これ、おもしろそう。やってみよう」ということがしばしばある。継承、とまで言わなくても「追試」という言葉がある。

もちろん継承という言葉にしても、100%そっくりそのまま同じように実践する意味で使われるよりも、実践の重要な要素を理解し、状況に合わせて対応していく、といった方がいいのかもしれない。また、継承される実践というのも、状況変化に耐えうる特性を持っているのかもしれない。

ただ、やはり実践というのは一回性なのだ、と私は思う。ひとつの実践には哲学が詰まっていて、ひとつひとつに実践者のこれまでの経験から選択された意図がある。ネーミングひとつにしても、そこにこだわるだけの理由がある。それだけ思考に思考を重ねて経験を積み上げたからこそ、他者が知るべき実践となるのだろう。

だから、実践内容そのものを追試することに意味はなくて、実践が形作られる過程を追試することに意味があるのではないかと思う。そして、同じ実践はできないという前提のもとで、どれだけ目の前の学習者のために他者からヒントを得て作り直すか、ここに教育実践を創造する力量が表れるのだと思う。その時に「何のためにこの実践をするのか」「なぜこの実践は~だろうか」と問えるだろうか。そして、その問いに合わせてある部分を切り捨てることができるかだろうか。

学校という環境が、そもそもとても制限のある環境下であることを前提にして、授業というのはいつも100%の学びをすることはできない。それでも、50分という時間の中で、教室という場所の中で、それぞれの生徒が持っている能力を最大限に力を発揮する実践とは何なのだろうか。

私たちはいつだって選択することができる。

実践をひらこう

自分の拙い実践なんて…と考えだすときりがない。

だけど、どんな優れた実践もその過程には葛藤と反省がある。学習者を前にしてあれこれと考えを巡らす中で、実践は実を熟すのだと思う。

確かに自分の実践を公開することは自分の至らなさや恥ずかしさ、情けなさとセットであり、批評の目に耐えうる力も必要なことである。その批評の目をいかに自分の成長の糧として大切にできるか、ここに研究の場に立てるかどうかの分岐点があるように思う。

 

12月の授業や研究に関わる出来事を通して、自分のスタンスが受け身であることをとても感じる。いつも健康で万全な状態であるとは限らず、良いとき悪いときの往復の中でやれることしかやれないのだろうけれど、12月も終わろうとしている中で、やはりもう少し読み書きをする時間を持たなければならないという焦燥感を持つ。

 

~しなければならない、と言っている時点で、かなり無理があるのだけれど、元来なまけものな私は多少無理をしてでも習慣を作った方がいいのだろうなと思う。

それでも達成できることはわずかなのであり、それが自分の力量なのだろう。

 

まずは問いだ。かっこつけても、具体的に何も始めなければ意味がない。リサーチクエスチョンの拡散と、その中での価値づけ、調査目的の発見、具体的調査内容……ああ、もう何度もやった気がするけれど、このことを念頭に置いて授業記録の作業をしよう。

 

いつでもスタートは、ここから。

少しずつ書くモードに

クリスマスな週末は久々に何の課題意識もなく(見て見ぬふりをしつつ)、スターウォーズの復習をしながら過ごしました(スターウォーズは2015年以来のファン)。

 

二日間の休息からめきめきと気力が立ち上がり、今日のツイッターは前向きな言葉になりました。とにかく、書くという決意。

 

 

1学期から入っている公立中学校の授業記録をまとめています。単元の構造、教師と生徒の姿、何をしようとして、何が起こったか、記述します。私の裏修士論文の柱の一つです。裏なので来年提出の論文には生かされると思っていません。来年提出の論文はもっと自分の過去を記述するものになると思います。

 

10年とか先の自分のために今書けることを書こうと思います。希望とかそんなのではなく、ただ書く、それだけです。私は大村はまの授業を見ることなく教員になりました。ただ、全集や学習記録を通して断片を知ることはできます。そこから学べることは何か、ずっと考えてきました。それを書きます。

 

人のは比較的簡単に書けると思います。

問題は自分の実践を社会的にどう位置づけるか。何を実証するのか。何をもって研究としてのアイデンティティを持つか。

 

今の私の強みは、学部生あがりの院生と現職の先生と大学の先生というつながりの中に自分がいることです。さまざまな視点から、丁寧に、限られた時間を研究に注ぎたいです。

 

あなたにもぜひ読んでもらいたい。

そして率直な意見を聞かせてください。

 

 

キャパオーバーからの研究計画

キャパオーバー。

 

明日からの集中講義に向けての準備と、明後日の日本文学研究の調査まとめ、そして授業と、12月末にしてこれまでに一番の容量が押し寄せる。二つ、仕事をし忘れて周りに迷惑をかけてしまった。仕事量は余裕が持てるくらいの日程を組むのが大切だと思う。

 

仕事の優先順位をつけながら、休む時には休み、食べる時には食べる。

 

2年生は修士論文執筆の佳境を迎え、日々何字書いたかと話している。私も一年プログラムのつもりで書きたいが、授業がなかなか面白くて困る。結局読み終わらずに貸出延長する本もある。

 

それでも、1月にかけて、少し書く時間を確保できそうでよかった。10日に教授と面談することも決め、本格的に2018年の研究計画が立とうとしている。

問いのことばを持ち続ける

いつもそうだよなあ、と思う。

 

自分が発表の場に立ち、他者からフィードバックをもらう時、「どうしてこの問いを私は置いてきてしまったのだろうか」と思う。途中の過程で気づいていたはずなのに。

 

でも、どんなに自分の中で一度問うたとしても、その問いに「その瞬間」向き合わず言語化しようとしない限り、それは自分に問うたことにはならないのである。その問いを自分でつかまなければ、後から人に言われて「そんなこと一度考えたな」と思っても、自分の問いにはならないのである。

 

問いの忍耐量とでもいうべきかだろうか。思考というのは(…なんて高尚なことはとても威張って言えないのは承知で)いくつ自分の中に問いのことばを溜められるか、ということなのだと思う。わかったつもりになっても、また自分に問いを投げかけ、その問いに答え続けることが、考え続けるということなのではないかと思う。

 

情報にたどり着くまでの時間が短くなっても

源氏物語の一場面について調査を進めていたところ、先行研究がぞろぞろと出始める。

自分が何時間もかけて一例ずつ読みまとめたことも、すでに何年も前に調査が終わっていることだった。

ただ、ほんの少し文脈や解釈の異なる部分があり、それを言語化していくことがこれからの作業になる。

うん、研究ってこうした地道な営みの先にあるのだよな、と思う。

いや、論文検索はじめ、ほしい情報にたどり着く時間は圧倒的に早くなっている。

そして、今自分がしている作業も30年もすればまた変わっているのだろうと思う。

ただ、自分で考え、自分のことばで語れる力は変わらずに必要だとも思う。

50年以上前の研究論文を読みながら、何が変わって、何が変わっていないのかを考えている。

フィールドワークを行う際の問い

1 自分がフィールドをどのように理解しているか

2 フィールドに内在している要素は何か

3 フィールドによって気づいた自分の問題関心は何か

4 他者は同じフィールドをどのように見ているのか