放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

1月第3週の振り返り

3学期が始まり、冬季休業中に忘れていた課題を思い出し、毎日何かの締切に追われている感じの1週間だった。

今日はやっと授業研究の再分析のデータ起こしが終わる。これから点検してもらい、考察を挟んで、ようやく研究成果のまとめとなる。一区切りまでもう少し。

あとは中学校入学までに身につけたい力について考える。大学院にいると、「経験が浅くて不勉強な自分」と「8年も現場経験がある自分」のどちらも実感することがあって、どのような立場に立って話をすべきか迷うことがある。経験を語れることが強みでありながら、一般化することに関しては弱みであるとも思う。ずっとこの部分が重荷になっているように思う。

どちらか、ではなく包括するような目的や方法を持ちたいと思うのだが。

 

明日から2日間は集中講義。

 

書き散らす

実践の記述に困難を感じている。研究的に書こうと思うと、テーマを絞ろうとか、問いをはっきりさせようとか、根拠を明確にとか、データの妥当性はあるのかとか……さまざまな思考が働く。研究における作法を意識すると何も書けなくなってしまうので、とにかく書く。書くというより、書き散らす。整えようとしても、整わない状況を認識する。長く研究を続けようと思えばこんな時間も必要なのかもしれないと思うが、今は焦る気持ちもある。

今日は修士2年生の論文提出日。1年後を感じながら、書き散らす。

共同分析で必要なこと

共同研究の実践で表出したデータを2人で分析している。「2人」という人数がポイントだ。

分析の観点や記述の仕方を打ち合わせて作業を始めても、どうしても読み方に差異が出てしまう。分析結果の読み手を意識すると、どちらかの記述に統一するか考えねばならない。しかし分析者が2人であると、どちらかのパワーバランスに話し合いの結果が左右されたり、重要なポイントを見落としてしまったりする。合意形成における人数は重要だ。

また、できるだけ丁寧に自分の作業過程を言語化する根気強さも必要である。一つ一つなぜその方法を選択し、なぜその記述をしたかを説明する。実践の時は「えいやっ」とある程度勢いで進められた。分析の場面では違う能力が試されるのだ。データに忠実であること、記述を統一すること……論述に必要なことをたくさん学んでいるような気がする。

 

今日はワークシート分析で1日の大半が終了。授業記録をまとめる作業は進まず。

今年度の修士論文提出締切まであと3日。夕方になって1時間程度、過去の論文を整理する。

記述を遡る

授業記録を書きながら、自分の記憶の曖昧さを思い知り、記録の価値を知る。

しかし、完全なる記録もまたないのだということも知る。

私が記録することは、私が見て、認識したことしか記録されない。どんなに記録機能が発展しても、そこから何を受け取るかはやはり私次第だ。

少しでも足りないところから、より再現可能性の高いところへ目指す力と、より残したいものを選び出す力と、両方が必要なのだと知る。

分類する

午前中はワークシートの分析をする。記述の種類ごとに分類作業をした。

「分類する」活動は授業の中で定番の活動と言っていいと思う。実際に活動してみるとわかることだが、分類しきれないものが出てくる。どうしようもなくて見て見ぬ振りをしたり、「その他」で括ってみたりする。この瞬間、この事実を見逃してはいけない、と思う。分類作業で削ぎ落としたものに、実は重要な要素が含まれているかもしれないからだ。

これは、分類されたものを読む時の思考にもつながっていく。分類作業に慣れている人は、分類後のデータから元のデータを推察することができるだろう。

ひょっとしてこの表には書かれていないけれど、こういう記述もありえるのではないか?

その記述はどこに含まれているのか? と。

こうした思考がデータを読み取る際の重要度を判断する指標になる。PISAショックの時に何度も図表の読解に取り組んだ気がするが、読む方向だけをしても思考は生み出されず、実際に作る側になって見えてくるものがある。読むということのトレーニングは、作ることの経験によっても形成されるのだ。

24時間営業のファミレス

お正月でも24時間営業しているファミレスがある。

個人的にはお正月なんだからお休みしてもいいと思うけれど、ノマドワーカーはこうして有難く利用させてもらってます。

4日4:30のまだ暗いファミレス。BGMと少しの雑談しか聞こえない。静かな場所です。