授業記録を書こうと思っているが、何をどうまとめていいものやらわからず、ずっとPCの前で硬直して今日は終わった。なぜ書けないのか?どうしたら書けるのか?そもそも私は何を書こうとしているのか?
今日はそんな日。締め切りは明日。
仕事始めは学習記録の整理から始まった。
B5判の原版は実は読みづらく、破損も多い。それでA4のコピーを取って読み直している。今日の分析は1人。2年生の1年間の記録を読み直した。
同じ1時間でも一人ひとり感じること・表現することは違うのであり、そのことに生徒自身も気づいていく。
今日の一番印象的な記述は「線を引いているところがちがった」だった。違うからこそ他者と学ぶ価値がある。そういうことを、私は自分の言葉では伝えてこなかったような気がするが、このノートには他者から学んでいる過程が記述として残されている。
それにしても、やはり1年間の授業の密度が全然違う、と思う。1年間の記録をこのようにして総ざらいすると、時間の使い方が私の理想とする姿とはかけ離れているよな、と思う。私はもっと重層的な授業展開をしたいと願っている。前に学習したことが、次の授業にも生かされ、その次の時間には前の前の授業も生かされていく、単発的ではない授業の形態はどうしたら生まれるのか、と思っている。ただし、何かをしようと思えば、その分削らなければならないことが増える。そして、自分の力量以上のことはできない。
もちろん学習者の姿あっての授業であり、それを抜きにして毎時間の授業は生まれないのだけれど、基本システムとかルーティーンとか、もっと変えられるものはあるのかもしれない。いや、今このくらいのペースがいろいろやれているのかもしれない。
今日も歯切れが悪く、どうしたものかな、と思いながら研究日誌を閉じる。
論文の打ち込みに疲れ、ずっと寝てました。
日が暮れてからおせち食べました。ええ、北海道は大晦日から食べるんですよ。年越しそばも食べます。年賀状はまだ書けていません。ごめんなさい。
2017年も、図々しく学び続けました。自分の中では、ごめんなさい、今は何も還元できずお恥ずかしい限りです、って思いながら書いてます。本当に。でも、2018年も勉強楽しみます。何より研究発信の年にできるように頑張ります。拙いながらも、みなさんに公開していく中で考え続ける自分になりたいです。あなたのためにことばを紡げる人になりたいです。
どうぞ良いお年をお迎えください。
2017年12月31日 つくばにて
今日は一日家にこもって、資料整理をした。
視覚情報優位なせいなのか、デジタル処理をするよりも、アナログに全体を見渡せる方が情報を整理しやすい。これまでの学びを分類して、重要度別に分けて、ラベリングした。作業しながら、あ、こんなこと学んだな、とか、そうかこの時のことばが今の私の思考につながってるのか、とか気づく。
しかし、分類作業は判断力が必要で、悩む。決める、という行為が時としてとても困難であることに気づかされる。
決めるためには目的や観点という語彙を身につけることが必要なんだな、と最近になってよく思う。迷ったら初動の目的に立ち返り、整理するための観点を並び直す。なんなら一度壊し、やり直してみる。
そんなことを日が暮れるまで悶々としながら続ける。結局、部屋は片付かなかった。笑。まあ、これから。
ただ、体験をしながら語彙を獲得していく過程は生活の中でも活かされるものなのだなと思う。というか、そのように生活とちゃんと交わるような教育でありたいよな、と思う。教育に関わる人間が生活を大切にすることの価値って、やはり学習者もまた生活の中で生きていることに依拠するからだ、と思う。
2017年5月から12月まで、計13回都内の公立中学校国語科授業を参観することができた。1回の訪問につき3学年の授業がもれなく見られる。ありがたい環境であり、学年ごとに差異の見える記録に改めて考えるところも多い。
今日から記録起こしを始めた。訪問ごとにほぼ毎回レポートにまとめる作業をしていたが、全体を通してまとめる作業は今日が1日目である。全授業内容を打ち込むだけで1時間。うん、道のりは長い。焦らずにいこう。
熟読しているわけではないが、参考図書として以下の2冊を手元に置きながら記録をまとめようとしている。正直まだよくわからない。さまよっている。とにかく情報を一旦出し切って、それから編集作業に入ることにしよう。作業しながら考える。
国語科教師の実践的知識へのライフヒストリー・アプローチ―遠藤瑛子実践の事例研究
実践者が集まる勉強会に二日間参加する。
ほとんど私語をすることなく聞き合う場だった。言葉を借りて言えば、本気に学びたいと思う時に、学べる場があることはしあわせなことだなと思う。
個人的には、実践から少し離れて、美しいことばで語りがちになっている自分に気づく。
私が研究的に語れるとしたら、それはきっと美しくないものだ。そのことを忘れてはいけないと思うし、そこに立ち返らせてくれるのは、やはり学習記録である。
私はいつも生徒に好かれたかった。生徒に好かれている先生がうらやましかった。また、国語が好きだと言わせたかった。視点はいつもそこに注がれていた。それは、私の想いを中心軸として回るコンパスのように、その円のなかだけを見つめるものだった。
よいとかわるいとかではないが、私はその見方が私を苦しくさせ、教室を息苦しくさせていたのではないかと思う。
今一度教室から視点をずらして見るために私ができることは、学習者たちが編集した本一冊一冊を読むことだ。
過去や未来を行き来しながら、年末を過ごしたいなと思う。
実践の継承について考える機会があった。
私達が他者とのコミュニケーションをするときに、情報のすべてを理解することが不可能なように、私以外の誰かがクローンのようにまったく同じ実践をすることは不可能である。
実践者自身のライフヒストリー、持っている特性、おかれている環境、学習者の状況…さまざまなことを考えると、実践の再現とは、とても難しいことだ。
しかし、教育実践では、他の先生の授業を見て「これ、おもしろそう。やってみよう」ということがしばしばある。継承、とまで言わなくても「追試」という言葉がある。
もちろん継承という言葉にしても、100%そっくりそのまま同じように実践する意味で使われるよりも、実践の重要な要素を理解し、状況に合わせて対応していく、といった方がいいのかもしれない。また、継承される実践というのも、状況変化に耐えうる特性を持っているのかもしれない。
ただ、やはり実践というのは一回性なのだ、と私は思う。ひとつの実践には哲学が詰まっていて、ひとつひとつに実践者のこれまでの経験から選択された意図がある。ネーミングひとつにしても、そこにこだわるだけの理由がある。それだけ思考に思考を重ねて経験を積み上げたからこそ、他者が知るべき実践となるのだろう。
だから、実践内容そのものを追試することに意味はなくて、実践が形作られる過程を追試することに意味があるのではないかと思う。そして、同じ実践はできないという前提のもとで、どれだけ目の前の学習者のために他者からヒントを得て作り直すか、ここに教育実践を創造する力量が表れるのだと思う。その時に「何のためにこの実践をするのか」「なぜこの実践は~だろうか」と問えるだろうか。そして、その問いに合わせてある部分を切り捨てることができるかだろうか。
学校という環境が、そもそもとても制限のある環境下であることを前提にして、授業というのはいつも100%の学びをすることはできない。それでも、50分という時間の中で、教室という場所の中で、それぞれの生徒が持っている能力を最大限に力を発揮する実践とは何なのだろうか。
私たちはいつだって選択することができる。