「長いフレーズを作るのが指揮者の役目だ」
今週は,小澤征爾と村上春樹が音楽について話をする本を読み続けた。印象に残ったのは,カラヤン先生がシベリウスの五番が好きだったという話から,小澤征爾がカラヤンの持論を次のように話していたことだ。
演奏もとてもとても素晴らしかったけど,この曲を使って弟子に教えるのもうまかったな。長いフレーズを作るのが指揮者の役目だと,よく言われました。スコアの裏を読みなさい,と。小節をひとつひとつ細かく読むのではなく,もっと長い単位で音楽を読め。僕らはね,四小節フレーズとか,八小節フレーズとか,そういうのを読むことには慣れています。ところが彼の場合は,十六小節とか,もっとすごいときには三十二小節とか,そういう長い単位になってくる。そこまで読めと言われます。そんなことスコアには書いてないんだ。でもそれを読むのが指揮者の役目なんだと。作曲家は常にそれを頭に描いて楽譜を書いているんだから,そこまでしっかり読みとりなさいと。それが彼の持論なんです。(p.121)
目の前のことを一生懸命やるだけでは響かない
この部分を読みながら,演劇や合唱の指導はどうあるべきなのか考え続けた日々を思い出す。
2014年からの3年間,勤務校の学校祭が演劇と合唱コンクールをメインにした行事だった。その経験の中で見方が大きく変わったことは,演劇や合唱が「時間」を共有するものだということだ。はじまりがあり,おわりがあり,基本的に中断を許さないからこそ生まれる緊張感がある。そして,一つの時間の中で何らかのストーリーを描くことにより,見ている側・聞いている側に何かを伝える。
合唱練習なんかは,どうしても短く区切ってそれぞれの小節を細かく「こうしよう」「ああしよう」と言いたくなるのだけれど,部分部分の完成度が高くなるだけではうまくいかない。1曲すべてをffで歌っても聞いている方は途中で飽きてしまう。この部分は最後のここを強調するためにこうしようとか,全体の中で部分を捉えることが重要なことだと学ぶ。
長いフレーズで学校再開後の授業を描けるか
教師の仕事が仕事として成り立つには,ある程度の全体像を見通すことができるかどうかにかかっている。そして,どうやらその見方には解像度の違いがある。より具体的に,鮮明に,子どもたちの学ぶ姿を描けるだろうか。今も子どもたちのことを知る努力をしたり,何をどう提示するのか試行錯誤したりしているけれど,その一つ一つが最終的にどういう方向性に向かっているか,感じられているだろうか。