放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

印南淳史「世界一やさしい読書習慣定着メソッド」

国語科の世界にいると、みなさんの読書量の多さに驚かされます。
国語教育コースに来てからも「○○は知っている?」という会話を耳にします。
 
知らないことが多いのですね。
その度に私は恥ずかしくなります。
 
 
私は文学少女ではなく、漫画とテレビとファッション雑誌を主な情報源として10代を生きてきました。
ネット情報は読んでも、基本的に活字だけの紙媒体を読む習慣がありません。
 
ただ、国語教師と言えば、近代の文豪はもちろんのこと、現代作家についてもこの人が好き、と呼べるくらいに熱中して読んだ作家がいる人が多いです。
(その点で言えば、森絵都さんや江國香織さんの本は好きです。)
 
しかし、漱石、鴎外、太宰、芥川、三島、宮沢賢治……となってくると、とたんに声が小さくなります。
これを、自分の中で「読書コンプレックス」と呼んでいます。
 
 
そんなネガティブ読書家に対して、ポジティブに読書を楽しもうという感覚を取り戻してくれる本が『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』です。
 
すぐに、読めます。
1時間くらいで読みました。
そのくらいにわかりやすい!
 
 
この本を読んでハッとさせられるのは、「本を読まなければならない」義務感が読書の楽しさを失わせるということです。
 
もう少し言うと、「本は熟読しなければならない」「本は多読しなければならない」といった「~なければならない」というプレッシャーが自分自身の中にあることです。
筆者は短くですが、学校教育がこの義務感を多少なりとも作っていると述べます。
このことは否めないと私は思います。
 
本を読め、読めと言われるうちに、自分の本の楽しみ方を忘れてしまうのです。
 
読書とはこうあるべきと思いこんで、本は読みたいのに「消極的読者」になっていくという構造、みなさんの周りにはありませんか。
 
 
ただし、筆者も述べていますが、自分の好みのジャンルに偏った読書で終わることはもったいないことだとも思います。
 
心地よい自分スタイルの読書習慣を身に付けつつ、自分が苦手な本も手にして「なぜ私はこの本と相性が悪いのだろう」と考えるのは、自分を知ることになります。
その点については、自分の価値観を広げる読書の価値を知った上で、大切にしたい考え方だと思っています。
 
最後に、前回の論文生産術もそうでしたが、この本も「読書習慣定着メソッド」とうたっているだけあって、具体的に生活のどの時間にどのように読書を位置づけるかを提案しています。
読書も執筆も、ご飯を食べたり歯を磨いたりするように、生活の固定された時間に習慣化すると、自分にとって豊かな毎日が刻まれていくのではないでしょうか。
 
細かな疑問はあれど、本を読んで書かなければならない時期を過ごしているにもかかわらず「消極的読者」になっている人は、この本が生活の励みになるなと思います。

授業づくりを科学する。

昨日は中原淳監修・脇本健弘・町支大輔著『教師の学びを科学する―データから見える若手の育成と熟達モデル』(2015、北大路書房)を読んでいました。
 
それでここ数日「科学する」という言葉が気になっています。
 
 
大学院での授業が開始して2週目を迎えています。
 
残るガイダンスは2つとなりました。
 
これから本格的な授業の本題に入っていきます。
 
 
ここまでの気づきとして、修士課程の授業には2タイプあることがわかりました。
 
1つは、専門性を高めるための理論を学ぶ授業です。
 
それぞれの先生の専門内容をもとに、
 
実際に自分たちも一部分を講読・検証・発表するタイプです。
 
例えとして中学校国語科の私の場合で言えば、
これらの授業を受けても、直接的に『少年の日の思い出』や『走れメロス』の授業開発にはなりません。
 
しかし、理論を学ぶ基礎的な演習になります。
 
一つの題材に対して、参考図書を探し、読み、解釈をしてレポートにまとめる、といった学習過程が必要になります。
 
題材はマニアックなものも多いですが、自分の知らないものを解明していく基礎を身に着けていく点で、研究の「筋トレ」のようなイメージで捉えています。
 
 
もう1つは、国語科授業の「実践の姿」を学術的方法で追究していく授業です。
 
こちらは国語科授業を題材として扱っていきますので、実践的です。
 
先ほどの「筋トレ」に対して、「実際に走ってみようか」といった感じ。
 
しかし、現場の研究授業と違うのは、授業検証の方法に重きをおいている点です。
 
確かに、これまでの授業づくりを考えると、個人的感覚で授業をとらえることが多かったな、と振り返ります。
 
 
その授業の価値は何か。
 
なぜその方法を取るのか。
 
国語教育史の中での位置づけはどうなのか。
 
そもそも「○○」ってなにか。
 
その授業が効果的なのかどう検証するのか。
 
 
「きっとこの授業をしたら、子どもたちは楽しいだろうな」
 
私はそういうことを考えて授業づくりをしてきました。
 
でも、授業が終わってから「で?」という授業が多かったのも事実です。
 
授業を受けながら、事後検討がなんとなく次の実践に深くつながっていかない感じは、
 
「検証」部分の弱さにあるのかなと思ったりもします。
 
だから、実践も考えつつ検証をしていくというのは、「授業づくりを科学する」ことなのだと思いました。
 
 
どちらも修士論文につながる重要な授業だと思っていますし、
 
プラスαで、現場教育の科学的実証研究を何らかの形で位置づけられないものかと考えています。
 
1つの授業づくりに大学院ほどの検証の時間は取れないですが、
 
効果的な授業方法を見出していくためにどんな工夫ができるのか、
 
教育活動を「科学する」視点は、これからの課題として持っていきたいです。
 
 
さて、どうなることでしょうか。
 
ひとまずは本格的な夏を迎えるまでがひと山になりそうです。

人と関わって生きていく

昨夜は新入生歓迎会だった。
 
たった1年の修士経験の違いにも関わらず、
 
修士課程2年の先輩たち(私にとって年齢は下の方ばかり)が
 
修士論文構想発表会前のとっっても忙しい時期に)とても温かい会を開いてくれました。
 
こんなにも教授陣と近くで話せる機会はないだろうと思いますし、
 
各方面で活躍されている方たちと情報を共有できることは
 
大学院生ならではだなと感じました。
 
 
織り交じって対話をしていくと、
 
筑波大学教授陣は元筑波大大学院生の場合も多く、
 
また地方大学の教授にも同期の教授が多数おります。
 
自然と共通の知人の話題で盛り上がります。
 
ともすると、教授自身が院生の高校のOBだったり、実は高校時代の先生だったりもします。
 
よって、他大学からの院生も指導教官同士のつながりを持っていて、
 
確実にこの集団の人脈のネットワークは多方面と広くつながっていると実感しました。
 
 
かくいう私も、世間は狭いもので、
 
北海道教育大で教鞭に立たれていたり、共通の知人がいたりと、
 
何かと北海道にご縁のある先生方と出会っています。
 
確かに筑波大学にいたるまでにも、北海道内で多くの方とのご縁があって
 
この貴重な機会を得ています。
 
 
派遣は1年に1人ですので情報も少ないです。
 
しかし、経験された方のお話を伺えたことは私の受験への後押しをしてくれました。
 
人とのつながりが、人を動かすのだとしみじみ思う次第です。
 
自分の進む道を自分で選択できるのは幸せなことです。
 
そして、自分のことを理解して行動することが大切なのだと思います。
 
かつ、その過程で誰かとの縁が自分を動かしていると改めて思います。
 
 
 
人付き合いなんて面倒だ、なんて思ってしまう日もあるかもしれません。
 
しかし、どこでだれが自分の人生に影響を与えるかは、今の自分にはわかりません。
 
日々出会う人との縁に感謝しながら対話を重ねることが、自分の人生を織りなす上で必要なのだと思います。
 
 
 
 
 
昨夜は久しぶりに0時まで食べて笑っての楽しい数時間を過ごしたので、
 
代償として今朝は冴えない文章でした。
 
 
 
と、言い訳を残して終わりにします。
 
今日は1・2限が授業の日です。

学習者にも日常はある。

昨日は夕方から激しい雨が降る。
天気予報では「雨」と伝えられていて、
5・6限の授業は気が気じゃなかった。
自転車で通学するようになって、
「雨」の憂鬱さが3倍になった。
学習者にも日常がある。
その中で、毎日の学びがある。
スパッと切り上げて「今日はここまで」とか
そんな日もあってはいいのではないか。
と、あまり大きな声では言えないけれど、
私は、そう思っている。
 
生活の上に学習が一部としてある。
 
授業づくりに邁進していたころの私は気づかなかったけれど、
どんなにおもしろいしかけがある授業でも、
学習者の生活の流れの中で受け取られる。
 
ファシリテーターは参加者の調子をよくうかがう。
今日の気分に合わせて、自分の無理のない範囲で活動を進めようとする。
そんなところが、ファシリテーションを体験してみて素敵だと思う。
 
もちろん、
 
「今日はちょっと落ち込むことがあったけど、国語の授業受けていたらそんなこと忘れてしまった」
 
と、学習に集中できるような授業ができたら理想だけれど。
 
それでも、学習者にも日常がある。
その上で私たちの仕事は成り立っている。

困ったら人に聞いて歩く。情報はゴロゴロと転がっている。

わたしは困ったふりをするのが得意です。
 
というと、誤解を与えてしまうかもしれません。
 
本当は大したことないのに大げさにふるまって、「かまってちゃん」ですかー?
と印象を持たれてしまう危険もあるからです。
 
人にどう思われるか、日々考えなければならないって大変だーーー。
もう、人間関係なんていやだーーー。
 
なんて人間関係にうんざりしてしまう人いませんか。
(自分も含めて)そんな人に言いたい。
 
すぐに人生をあきらめないでっ!(真矢さん風)
※ちょっと古い。
 
 
 真面目に戻ります。
「困っている」意思表示をすることって大切なことだと思うのです。
日々「大丈夫、大丈夫」って言っている人いませんか。
 
わたしはお酒を飲まない(飲めない)人間なので、
明らかに酔っている人に「大丈夫ですか」と聞いて(この時点で愚問)、
「大丈夫、大丈夫」と答える(「やっぱり」と思う)人は、
たいてい「大丈夫」ではないことを知っています(笑)。
 
一人で歩けないときは、誰かに支えてもらうのが一番安心。
一部の人には甘えてしまうことになるけれど、
それが波及して他の人にも迷惑をかけることがなくなるからです。
 
もちろん、大人なので自立していることや、
他人と適度な距離感で付き合えることも人間関係では大切だと思います。
 
ただ、自戒を込めて言うと、
困っているのに、自分で調べればなんとかなる、とか
自分が頑張ればなんとかなる、とか思っているうちは、
大したタスクでもないのに、時間がかかってしまって
本当の成長の機会を逃していると最近気づくようになりました。
 
どこかで聞いたことあるような話ですが、
頼られて嬉しくない人っていないように思います。
「○○さんのおかげで助かったよ」と言われ、
(本当に本当に憎ましいくらい大変で迷惑な話でなければ)
ちょっとした苦労も報われて、よかったと思えるのではないでしょうか。
 
わたしも今は新世界に飛び込んで先の見えない航海の途中ですから(ワンピース!)、
毎日わからないことだらけです。
素直にわからないことは「わからない」と意思表示して質問できる力って
本当に大切なんですね。
 
意外と周りも「そんなことがわからないのか」と気づいていないですからね。
これは授業の学習者とのやり取りにもつながってきます。
 
授業の話はまた別の機会に話すとして、
4月も半月が過ぎたので、
そろそろ人間関係の次のステップが始まっているのだと思います。
相手を信じて、「聞いても大丈夫だな」と思える関係ができていればOKだし、
自分も相手に相談されやすい人でありたいな、と思うのです。
 
情報は共有するもの。
自分で調べられる力も大切だけど、
わたしにない情報を他の人たちは持っていると信じられることも大切。
 
まずは自分が知っていることと知らないことを把握して、
周りに知っていそうな人を探す。
そしてタイミングを見計らって聞く!
 
だから、人間関係って大切なんですね。
筑波大学は総合大学ですから、学問領域に留まらず、
出身地も国籍もさまざまですし、
わたしの想像もつかない発想を持っている人たちがたくさんいます。
それってとても幸せなことで、周りから学べる機会を日々得ているということです。
 
わたしの周りでいろいろなことを教えてくれる人たちに感謝です。
本を読んで学ぶことと、周りとディスカッションして学ぶことと
多様な学び方を意識して持っていたいと思います。
 
ありきたりな結論に達しましたが……今日はこの辺で。

論文を書かなければならないことはわかっているけど、何からどうしていいかわからない!

大学院生になって半月が経ちました。

最初の1週間は生活を整えることで精一杯。

次の1週間は大学院での諸手続きをすることで精一杯。

おそらく来週は各授業のガイダンスと

本格的に始まってくる授業の課題とで精一杯になってくるでしょう。

 
そんなわけで、「たくさん本を読んで論文を書こう!」
と思ってやってきた大学院ですが、今のところ生産性0%です・・・。
 

まぁ、4月ですから、仕方ないのかもしれませんが・・・

 
と言っていると、あっという間に夏が来てしまうかも!?
 
というわけで、今日の個人研究テーマは「研究論文は何をどう書けばいいのか」です。

1冊目に手にしたのは、大学書籍部でも平積みされていたポール・J・シルヴィア(高橋さきの訳)

『 できる研究者論文生産術―どうすれば「たくさん」書けるのか』です。

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

 

 

お分かりの通り、Howto本ですね。「何を」というよりは「どう」の方に重点があります。
 
ただこの本、本当におもしろい!
 
何が面白いって、「書けないよー」と言い訳こねている自分が、そのまま本に書かれているからです(笑)。
時間がないとか、物がないとか、気が乗らないとか・・・
 
作文の課題が出ても、あれこれと理由をつけて書き始められなかったり、
でも意外と書き始めてみたらなんだか書けてしまったり・・・。
 
何かしら生産を試みているみなさんにも一度や二度や十度はあるのではないでしょうか。
結論としては目標設定とスケジュール管理が肝なのですが、具体的かつ詳細に目標設定をするところなどは、
論文執筆だけにとどまらず、仕事術そのものだなと思う部分がたくさん見られます。
 
また、行動分析の理論もところどころで引用されているので、説得力もあります。
生徒指導とかキャリア教育とかの観点から読んでも面白いなと思います。
私の研究は「学習記録」に重点を置いているので、進行状況を自己観察することが一番興味深いことでした。
具体的なことはネタバレになってしまうので、気になる方はぜひ手に取ってみてください。

 

最近、五郎丸から始まって一流で活躍する人たちのルーティーンの実行が注目をされています。

私は気分屋なので、目標を立てて実行するのは苦手なのですが、

成すべきことを成したいと思うのならば、どの行動を優先するかは考えていかなければならないなと思いました。

 

ちなみに、読むことも書くことも一つの生産工程だということも明確になりました。

 

ってなわけで、今日はポール・J・シルヴィアの真似をして、

寝起きにコーヒーを入れてから、まずはパソコンに向かっています。

場所は寝室です。

いろいろこだわっているよりも、まずは行動すること。

これまでの自分を振り返ると、いろいろな理由をつけて

行動してこなかったことってありますよね・・・

 

まぁ、書く内容は昨日読んだ時点でほぼ決まっていたのですけど(笑)

 

なにはともあれ、今年はチャレンジの年ですから、行動あるのみです。

何のために大学院に行くの?

2017年4月から北海道の長期派遣制度で筑波大学院で研修をすることになりました。

発表になってから、よく聞かれたのは、

まだ勉強すんの⁉︎

でした。
みなさん、勉強が嫌いらしい…笑。
「そんな面倒なことになって大変ですね…」なんて方も…。

 

それが、言いにくいのですが、私は自分から行きたくて大学院に進むのですよね……趣味の延長にあるって言ったら怒られますか、ね。とにかく、ワクワクする気持ちが大きいのです。

ここ数日は周りの反応を知り、いかに私が変わりものなのかを実感するのでした。

細かいことを言えば、勉強と研究は違います。
スタート時点では「学び直したい」が一番の動機でしたが、大学院は研究をする場だよ、と数少ない私の知り合いの大学院関係者は言います。

中学校に勤務していると、日々の授業が流れるように過ぎていくのを感じます。
なぜこれを学ぶのか、疑問が湧いても追求する時間をあまり持てていなかったのです。

さらに正直に話せば、研究、という言葉も私にはまだ理解できないことです。
テーマを決めて論文や書籍を読んで、関連付けて、実践と照らし合わせながら一考察をまとめること??くらいのイメージです。

それから、研究には他者貢献の視点もある??と思います。やるからには、何かの役に立ちたい。でも、自分の切実さを持っていないと活動を続けることは難しいと思うので、自分自身を知ることも必要なことだろう、とも思っています。

ともすると、周りからの刺激に過剰に反応して、自分を見失いがちになりやすい私です。だから私は何をしたいのか、何ができるのかを考えながら、まずは2年間、研究活動をする予定です。

在り方はさまざまにあるのでしょうが、最終的には、大学院に行くことで、この先また出会う子どもたちに何かを伝えられる自分でありたいと思います。

今ははじまりの時だから、希望や夢を語りやすいでしょう。この初心を忘れないように書いておきます。

さあ、これから何があるかわからないジグザグの道を行きましょう。苦しくも楽しいと思えるくらいを目指して。