放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

新聞紙が日常生活の一部ではなくなった。

北海道にいた時から新聞紙が教室や学校の掲示板に貼られるのをよくみていた。

たまたま近くに新聞を活用した実践を展開している先生がいたからだ。

つい先日も教室に新聞紙が貼られている学校を見た。

これは、新聞紙がもうすでに非日常化していることを意味している。

 

もう明示のことだけれど、新聞を取っている家庭は多くない。

学校で新聞紙を使うから、と言っても持ってこられない生徒は多い。

新聞を活用する実践は、そのことを踏まえなければならないと思う。

 

一方で、私もそうだが、電子媒体での新聞記事はよく目にするようになった。

同じニュースについて複数紙読めるし、離れた地域に住んでいても地方紙が読める。

新聞は取っていなくても、電子版の新聞を読んでいる人はいるだろう。

タブレットを使って新聞を読む。

もうそれがいいんじゃないかな、と思う。

 

新聞は社会生活を切り取って編集したものであり、

それを読んで考えて書くといった言語活動には

社会への関心を高めたり自分の考えを持ったりする効果があるだろう。

 

しかし、それは子どもたちの「日常」ではないことを確認しておきたい。

信じて疑わないことは、「変わらない」を選択する。

8月8日に山本純人先生と筑波大学でお話をする。

現職の先生や修士学生が来てくださり、

偶然の偶然で北海道の中納先生も参加し、

6人だけど、濃密な研究会となった。

 

今回の目的の一つは出会いの場とすることだった。

これはもう、大成功。懇親会まで行くことになる。

 

もう一つは今の学校について語ってもらうことだ。

おもしろかったのは「変わっていない」という話で、

やはり、前年度踏襲の文化は大きいなと感じた。

 

どこに仕事の重点を置いているかなんだと思う。

授業を持って、学級も持って、学校全体の仕事も持っている。

仕事として分けて考えがちだから、全体を細切れに仕事をして、

結局どこかは前年度踏襲にならざるをえない。

自分が担当する学級や授業は自分のこととして密接に生徒との関わりが大きい分、

力の入れようがある。

しかし、学校全体に関わる仕事となると、

ちょっと教師が持つ意識は異なってくるのかなと思う。

変化に耐えるエネルギーも関わってくる人が増える分だけ大きくなる。

 

建前としては、「全体のため」の仕事が最優先されるのだけれど、

「信じて疑わない」文化が良くも悪くも保守的な運営を促進するのかな、

と、話を聞きながらそう思った。

 

 

 

 

国立国会図書館の利用登録をする。

筑波に来たらしようと思っていたことがあって、

その一つが国会図書館に行くことだった。

 

春授業が終わり、やっと個人研究の時間が増えている。

一度国会図書館に行きたいと思っている。

今はまだ、好奇心で行動していることが多い。

国語教育全国大会とミスチル。

国語教育全国大会が終わりました。

 

初めての参加にも関わらず、

ご縁があって役割をいただいたり、

授業の方にも少しだけ関わらせていただきました。

授業者の先生のためになったとは言えませんが、

私自身は演劇的手法を用いた学習過程について

いくつか考えることができたので参加してよかったと思っています。

 

授業検討会の在り方については、

もう見るものを見てきてしまったので、

違和感を持たずにはいられませんでした。

どうしたらこれだけ大勢の先生方の知恵をフルに生かせるか、

研究協議はどうあるべきなんだろうと、

ずっとそのことばかり考えていました。

 

2日目の夜は日産スタジアムに移動。

小さな希望をいただいてきました。

終わりなき旅

終わりなき旅

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「演じる」をどう位置づけるか。

国語教育系の実践発表を垣間見ていると、

演劇的手法が最近ホットな話題である。

 

ということを、国語教育関係の人とお話しして昨日で3度目だ。

ゲストティーチャーの授業と相まって、

本物の演劇に触れる機会も増えている。

 

ただ、気になるのは、

実際にパフォーマンスをする形でその能力を高める方向と、

演ずることで実感を伴った学びにする方向と、

目的のズレのようなものを感じてしまう。

 

それらは分けずとも、両方が存在するものなのかもしれないが、

何のために演劇的手法を取り入れているのかあいまいな実践を見ると、

ただ単に外から面白そうな手法を持ってきて入れてみただけの教育になってしまう。

それで、やってみたらうまくいかなくて、継続しない…

だからいまいち力がついたのかもわからない…

という、実践の悪循環を生みそうだなと思う。

 

あくまでも私の感覚でしかないが、

演劇的手法は「これならおもしろそうだ」「やってみたい」という空気をいかにつくるかと、

やってみたところで、学び手にどこまで委ねられるか、

創出されたものをどのように受け取るか、

教師のファシリテーターとしての技量も同時にはかられると思う。

 

だから、ホットだけれど「自分が」という感じにならないのだろうか。

「自分が」という人を、私は知らないだけなのだろうか。

 

私は言語化を促す学習過程として演じることを見ている。

演じる中で自分を発見するおもしろさに、演劇的手法の魅力を感じる。

 

暑中見舞いを書く。

とにかく早かった4か月だったため、

北海道から茨城県に引っ越した挨拶状も書くことができず、

結局この時期になってやっとはがきをだすことになる。

しかし、3月にさまざまな方たちの勤務校や住所がわからなくなってしまい、

出したいなと思う人の宛先がわからない状態になっている。

 

なかなかお会いできない方たちには、

このブログから元気に暮らしていることを知ってもらえたらいいな。

 

暑中見舞い申し上げます。2017年8月5日。

自分の書いたものを相対化するためにノートを一覧共有する。

大村はまの単元学習に出会ってから、

ノート指導の在り方について大きく変わった。

 

 そもそも、ノートとは何か。

国語科重要用語事典

国語科重要用語事典

 

 概要をつかむには「事典」。

というわけで、大学院に来てから5種類の国語教育に関する事典を読んでいる。

昨日はたまたま明治図書の重要用語事典を読んだ。

東井義雄の学習帳に関する整理や芦田恵之助による読方科におけるノートの流れがあるらしいことを勉強する。不勉強のため、詳細は割愛する。

ポイントは、大村はまの「学習記録」がワークシートとして位置づけられる点だ。要するに、綴じられたノートかどうかで分けられるようだ。「学習記録」は大村が作成した手引きなど、授業で配付されたものを綴じていく形になる。ノートもワークシートも手製のものになる。

プリント型ノートを使う。

私は既製の縦罫19行のノートを用意させ、それを授業につかっていたのだけれど、改めてノート指導について考え、昨年はノートをコピーして使うことが多くなった。

生徒は授業前にプリントとなっているノートを準備する。

 

なぜそうなったかというと、授業後にノートを提出するためだ。

私の学習記録実践は年を経るにつれて、ポートフォリオにも近づいていったし、ふり返りジャーナルにも似ていった。

とにかく、毎日のようにノートを見る必要があり、返すのが遅くなったり無くなったりしては大変だから、授業終わりにすぐにコピーを取って返却することがルーティーンになった。

そのためには、綴じてある一般的なノートでは時間がかかるため、紙一枚のプリント型ノートを活用していた。プリントといっても、コピーをしただけ、教師が事前に手を加えるようなものではない。お手軽である。

 

書いたものを一覧化する。

コピーしたものは、大抵授業で共有化される。

疑問点や感想に、次の時間触れることがある。

考えを記入した場合は、全体で共有して再考することもある。

ノートにはそれぞれの考えや見方が書かれていくので、それらをB4用紙に8面印刷をかけると32人学級で両面2枚のプリントができる。

全員の書いたものが載るのを見ると、自分の書いたものがどうだったのか内省がおこる。

思わず「こう書けばよかったー」「もう一回書きたいな」なんて声が聞こえる。

十分に書けなかった、時間が足りなかった人も、他の人の書いたものを読んで学ぶことができると思っている。

留意点を挙げるとすれば、ノートが全体で共有されるものであることを事前に伝えておくことだ。共有されることが想定されているのとそうでないのとでは書きぶりが変わってくる。

 

一覧化からわかることをまとめる。

授業づくりの話をしていると収束をどうするのか、という問題を聞くことがある。特に多様な意見が出されるような授業において、後半のまとめ方をどうするかを検討する場面がある。意見が拡散し、もやっとしたまま授業を終えることに抵抗があるのだ。

そこで、個人に最終的なまとめを書かせるにしても、一覧化して共有したことから共通点や重要なことを取り上げて、少し整理してからまとめるといいと私は思っている。

子どもたちは有能で、教師があらかじめ答えを用意しなくても、誰かが重要なことを述べているものである。子どもたちから出てきた言葉をひろい、全体で共有することでこれまでの学習を振り返る。そのためにも、プリント型ノートの活用が有効だと私は実感している。