放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

欲張りすぎることと決め打ちすること。

修士論文のテーマについて発表する日が近づいている。

国語科学習記録という大きなテーマはあれど、

どこをどういう切り口で分析・考察するかは決まっていない。

基本情報や先行研究を少しずつ追えば追うほど、

自分はどんな問いや課題意識があったのかわからなくなってしまう。

優柔不断で欲張りな性格がよく表れている…。

拡散したテーマはなかなか選択するに決定するだけの自分が足りない。

問題意識や考察が進まない。

体良く言えば、知的好奇心が旺盛ということなのだろうけど。

 

あまり早くテーマを絞りすぎるのもよくないからと、

幾人かの指導教員の先生に励まされる。

 

ノートのあり方に変化が起こる。

学習記録を見ていくと、協同的な学びが多くなるにつれて

学習メモの記述が少なくなっていく傾向がわかってきました。

それは、話し合い活動をしていたり、

創作物を作成したりするからかもしれません。

その代わり振り返りの記述は多くなります。

 

例えば、1枚の絵からわかることを読み取って

その絵に描いてあることから想像する物語を創作する授業がありました。

最初に授業の流れを書いて、

あとは説明を聞いて書く時間です。

途中で級友と交流をする時間も持ちます。

そこでは何か書くことに関する言語事項を解説する時間はありません。

学習メモは空欄になります。

メモ魔の子はちょっとした教師や級友のアドバイスをメモするかもしれません。

しかし、ほとんどの子は創作に集中するので

ノートは授業の最後まで閉じていることになります。

そして授業の終わり際に、今日の作業の進行状況などを記します。

プロセス中心の振り返り記述になります。

 

このようなノートのあり方は、自分も経験したことはなかったし(おそらく)、

初任の時にも考えられなかっただろうなと思います。

ワークシートを活用した授業ではあったかもしれませんが、

ノートを授業展開と自分の参加状況を記すもの(一人一人違うもの)であることは

私にとっては大きな転換点でした。

 

みなさんのノート指導はどのようなものですか。

授業のあり方に連動して、フォーマットや書き方の指導はどのように変わりましたか。

振り返りの振り返りにこそ価値がある?

学習記録実践の中で、授業の振り返りを全体で共有することがある。

全員のノートを一覧印刷して配る。

そうすると、振り返りの質を相対化することができる。

例えば作文の観点で、自分は字数制限を観点に「200字以内で書けた」と書いたとする。

そして次の時間一覧化されたノートを見たときに、

他者の振り返りを読むことができる。

「接続詞を正しく使って書くことができた」

「段落の使い方が工夫できた」

「自分の言いたいことを主張としてまとめることができた」

「『例えば』を用いて具体例を挙げて説明することができた」

たくさんの課題が提示される。

その時に、自分が意識していたことと、そうではないことが全体から把握される。

これはできたけれど、これはできなかった、と内省が起こるはずだ。

 

このように振り返りを全体で共有することによって

自分の振り返りの観点以上の振り返りが起こり、さらに振り返りが深まると思っている。

自分ひとりでは気付けなかったことに気づけることに学習記録を共有する価値があり、

それは協同で学ぶ意義でもある。

振り返りの振り返りによって、リフレクションの再構築を行うことが

深い学びと次の学びに向かう態度を育成するのではないだろうか。

もっともっと、多様な子どもの姿を見る機会がほしい。

理想の子ども像を描きなさい。

目指すゴールを設定しなさい。

 

初任者の時に、もどかしさを感じた言葉だった。

教育書で出会ったり、先輩先生に指導を受けたり、

いろいろな場面で「そうだな」と思いつつ、

私は理想の姿なんて描けないとも思っていた。

 

だって、知らないのだから。

 

子どもの姿とは具体的にどんな姿なのか、

中学生でどの程度の力があることが望ましいのか、

学習指導要領に書いてある姿とは、具体的に言うとどうなるのか…

とにかくよくわからない、と思うことがしばしばあった。

 

今は出会ってきた中学生や他校の公開で見る生徒像から

なんとなくこういうことができたらよいだろう、というのは思う。

けれど、圧倒的に自分が勤務する子どもたち以外の姿を知らない。

それでいきなり教室に立った時、「どんな力をつけさせたいのか」という問いに突き当たる。

でも、本当に子どもの力を見取っていくにはもっともっと具体的な発言レベル、表現レベルで

こういう姿になってほしいなという願いのようなビジョンが必要なのだろうと思う。

そういう理想像をなしに年間の計画はたてられないのでは ないか。

 

だがしかし、理想像が見えない。

見たことがないから、と思ってしまう。

見えないものを想像する、ということも必要なのかもしれないが、

もっと力がついた状態というのを、実際に学習者の姿で理想像を持つという体験が

必要なのではないかと思う。

「研究個室」という〈自由〉が保障された環境で過ごす。

 

この学校は広い学校で生徒の数ほど個室があるのです。学校へ行くのにそこに個室がないというのはおかしいではないかと思うのです。勉強室、その人だけの勉強の部屋もないところが、どうして学びの場であるでしょうか。教室は教室であって個人のものではありませんから。

大村はま大村はま国語教室の実際 下』・2005.6.2・溪水社)

 

今日から筑波大学附属図書館は金曜日まで休館です。

夏季休業に入ってからこれまで、

図書館内の研究個室で本を読む生活が気に入っていました。

一旦お休み、ということです。

 

研究個室で本を読みながら、上記の話を思い出していました。

大村はまが講演中に「夢と思って聞いていてください。」と言いながら、

今の学校にはない理想の学習環境を語る場面です。

研究個室は自分の研究したいことに集中できる場です。

つまり、学校の中で個人の〈自由〉が保障されている場です。

 

子どもたちが個室を持って、自分の好きな本棚をつくり出した時、

どんな学びが創りだされるのでしょうか…

 

わたしも夢を見ています。

今週読んだ本

詩教材の授業をもう一度見直そうと思って、文学教材を扱った本を中心に読む。 

文学教材の新しい教え方 (21世紀型授業づくり)

文学教材の新しい教え方 (21世紀型授業づくり)

 

 

詩教育の理論と実践―初発の感想を生かす (国語教育叢書)

詩教育の理論と実践―初発の感想を生かす (国語教育叢書)

 

 

教科書を中心に見た国語教育史研究

教科書を中心に見た国語教育史研究

 

 

文学教育の新しい視点

文学教育の新しい視点

 
文学教材・感性の生きる授業 (授業への挑戦)

文学教材・感性の生きる授業 (授業への挑戦)

 
話題源詩・短歌・俳句―文学作品の舞台裏

話題源詩・短歌・俳句―文学作品の舞台裏

 

 

話し合いのコントロールは教師がすべきか。

大村はまの読書生活の指導記録を読んでいる。

一年生から積み上げた単元学習により、共同にそれぞれが調査したことを発表し合う座談会がある。

協同学習の試みがよく見えるすてきな単元だなと思う。

 

そこで大村は司会の役割を担っているのだけれど、

誰がどの本を読み、どのような内容が書いてあるのか、すべてを把握しているかのような進めぶりだ。

「話を本題にもどしましょう」といった発言もある。

かなりドライブの効いた座談会の進め方だなと思う。

 

そこで、話し合いの場における教師の役割について引っかかる。

教師は話し合いをきれいに収めようとして、発言者の本当に言いたいことを矮小化するようなことはしてないだろうか。

確かに時間の中で必要なことのみに焦点を絞って話し合うことは大切だ。

そのことを授業を通して共通理解させる意図もわかる。

 

ただ、ここで言いたいのは、教師の枠を超えた読みの可能性は本当にないのか、という疑問だ。