放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

わかりあえない研究協議で何を見つめるか?

 私が初めて公の場で研究授業をしたのは10年前のことです。当時、札幌でファシリテーションの講座に参加し、思考が拡散していくワールドカフェに夢中になりました。ワールドカフェを国語の授業でやりたくて、自分から地域の研究会の授業者に手を挙げました。話すこと聞くこと領域の授業としての公開でしたが、多くの国語科教員は読むこと領域に一番の関心があるので、比較的少数の参観者でした。それでも、ファシリテーションに関心があった他教科の先生も足を運んでくださって、事後の研究協議で嬉しくなったのを今でも覚えています。

 それから、何度か研究授業の場に立たせていただく経験をしながら、毎回あることに気づきました。それは、自分自身の学びが、授業前で完結してしまっていることです。指導案を作る過程で自分の課題が見えたり、次はこうしたいなと思うことがあるわけです。

 それで、事後研究会で先生方から質問やご意見をお1人ずつ伺うと、大体は授業構想段階で迷ったことだったり、自分でも難しいなと思っていることだったりします。代案を示されても、私が本来目指したい方向ではなかったりします。そんなことがあって、事後の研究協議ってどうあるべきなんだろう?と疑問に思っていました。

 そんな中で大学院生になり、たくさんの研究校の事後検討会に参加する機会をいただきました。大学附属学校の研究会はもちろんですが、公立学校の校内研修にも数校参加させてもらいました。そこでは、ファシリテートが上手く機能している事後研とそうではないものが存在していました。

 あくまでも主観ですが、上手く機能するというのはどういうことかというと、参観者が授業者の一番やりたいことを掴んで話をしているということです。わかりあえないのを前提にして、「きっとこの先生はこれをやりたいんだな」と考え、同じ方向を向いて話し合っているのです。

 授業を見る観点は、参観者の数だけ幾重にも存在します。だから、どこからでも批判はできるし、どこからでも評価はできます。でも、研究授業は、授業者や研究協力者がもともと成し遂げたい課題があって(やりたいことがあって)、形作られていします。だから、本来、その先生、ひいては、その先生を通じて参観者自身が、授業の根底にあるものを見つめ直し、ズレや気付きを明らかにしていく過程が事後研究では大切なんだよな……と思います。

 そうそう、コルトハーヘンが言っていましたよね。

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ずっと実感していたことですが、今になって、やっと言葉にできた気がします。