放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

今ここに、あなたもわたしもいない。

今日大学構内で自転車に乗っていた時、前からやってくる人がスマホを持っていた。

自転車を蛇行運転しながら目はスマホ画面にある。

人通りの少ない時間とはいえ、正面の自転車の存在にも気づかない様子。

仕方がないので、路線変更、道を譲った。

 

最近、こういう場面が印象に残る。

目の前に人がいるのに、視線も、思考も、別な場所にある。

みんな何を見ているのだろう。

その情報は、確かにその人につながっているのだろうか。

顔のない相手といくらやり取りしても虚しいだけ。

 

学習記録の研究もまた、時と空間を超えた学習者との対話になる。

時々、自分が読もうとしていることはもうどこにもないのだと思う。

せめて、過去から学び取れるものはないかと思うのだけれど、

やっぱり私は、直接見る学習者の姿が愛しいと思う。

授業記録と学習記録は違う。

授業の終わりに書く記録は、その日の授業がどのようなものだったのか記録されることが多いので、授業記録の意味合いが強い。

私は、学習記録を書かせている時、「授業記録」と「学習記録」の違いがよくわからなかった。毎時間の授業の記録は、そのまま学習記録になると考えていた。

しかし、学習記録には、授業で経験した事実や進捗状況などが書かれる記録だけではなく、確かに、学習者固有の学習過程や発見が書かれる。

これは、教師が設計・運営している「授業」についての記録とは言えず、やはり学習者の見方によって捉えられた「学習」としての記録なのだと思う。

何が自分にとって必要な学びだったのかは人によって違う。

 

問い立てと論文

引き続き、修士論文執筆中である。

今日の気づきは、今書いている章がこれまでの論文と違って書きやすいことだ。

その理由はどこにあるかというと、問いのクリアさにあるのだと思う。

 

私が今、論文を書いている時の思考の流れはこんな感じだ。

①どのような問いを切り取るか?

②その問いについてどのような方法を取るか?

※学習記録分析は基本的に書かれたものの解釈作業なので、どのような観点で分析するかを考えることがほとんど。

③その結果どのようなことがわかるか?

④ ①の問いに対してどのような結論を言えるか?

 

これまで書いていて、特に思考がまとまらない時の原因は、①の問いの設定が曖昧な時だ。これは、具体的に問いを言語化してみるとよくわかることで、結局書いていて、その問いとズレた内容になっていくと論理として成り立たなくなっている。小さな問いが、さまざまなレベルで一つのまとまりに混在している状況もあり、結局何が言いたいのか伝わらない文章になっていく。

 

そんな状況から私が学んでいることは5つある。

 1.ごちゃごちゃになったら問いを検討し直すこと。

2.問いをいくつかのレベルで小さく分けてみること。

3.分けた中で言えることを書いてみること。

4.常に問いから離れないように文章の頭に明記すること。

5.結論部分を書く時には問いをくり返すこと。

 

思考に甘さが出てしまう自分には、このくらい愚直に書くトレーニングが必要なんだろうなと思う。

 

 

数字はひとつのモチベーション

今日は8000字書く。

作文授業の振り返りで、「〇枚書いた」といった記述が目立つ。もちろん、量的な振り返りだけではなく、自分の思考過程とか内容面での検討など振り返りの視点は一つに固定せずさまざまに見方を変えてみてほしいのだけれど、自分がどのくらいの時間でどのくらいの量を書けるのか知ることも大切だよなぁと感じる。

論文執筆過程での学び

今日も論文執筆作業の日。論理のこと、まとまらない文章構成のこと、問いのブラッシュアップのこと、難しい課題と向き合う。

午後は免許申請のための書類作り。こういうのは早く電子化してくれたら楽なのになあと思う。

非日常の空気

今日から学園祭の大学。非日常の空気が大学内いっぱいになる。喧騒を避けて大学図書館に行くもののやはり落ち着かない一日。

ありきたりな言い訳だが、自分の書こうとしていることがまとまっていないので、すっきりとした文章を書くことが難しいな、と感じる。

板書はいつまで美しいといいのか

授業におけるノートは、板書を写す指導から始まることが多く、教師の板書技術がどうあるべきかを課題とする場合が多い。この意識は特に小学校の実践に多く見られるのだけれど、中学校で授業をする私も板書を美しく書けた方がいいなという思いはある。

実際、中学生に聞くと「○○先生の板書はわかりやすくていい」と言う。これはチョーク&トークの講義型授業がスタンダードであることも言えてしまうのかもしれないが、とにかく板書は授業のわかりやすさを示す一つの指標になっている。

でも、学習者が自らの課題意識に沿って個別に調べたり考えたりする授業では、板書は授業の中心にならないだろう。そもそも、板書って教室に1つしかないわけで、基本的には全員が一つの知識体系を概観するためには機能するけれど、個別の学習の成果はノートやワークシートホワイトボードなどを見ることになる。

固定化されたステレオタイプの思考にとどまらず、学習者それぞれに思考することを大切にするならば、板書がベースであること自体考え直さなくちゃいけないのではないかと思ってしまう。