放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

お休み

学会もパスして、2日間こもって本を読んだり、メモを書いたり。

コミュニケーション目的で人に会うのはいいかなと、最近思う。

良いと言われることは、頭ではわかっていても、感情は閉じていく。

週末後半は思考疲れで、しっかりと忘却して休む。

0か100かにならないようにしたいけれど、

自分の癖はなかなか治らないものだなと思う。

 

書けない日の感情を振り返る。

今日は大学院の授業内で修士論文の第1章にあたる先行研究のレビューを発表した。私にとっては、発表という締切までに「書く」ということ自体に意義があった。「なかなか全体像が見えないなぁ」「よくわからないなぁ」と思いながらも、自分でも明確に説明できるところとそうではないところを少し意識することができたので良かったと思う。

 

学習者としての気づきとして、作業途中で日誌を書けない時期が続いたことがある。振り返りに何を書くか、どんなことを書くことに意義があるのか、を考えていると自分に評価の目が向けられて、読み手を意識したり、書くことに意味を感じられなくなる場面があった。やはり、成果や気付き、学びがわかっている状態で書きたい気持ちもあり、良くわかっていない状況や進捗が芳しくない時は書きたいと思えないなぁと素直に感じた。

情報探索の知識

中間発表会で先行研究の整理が課題だとわかってから、ずっと資料探索をしている。収集しては、読んで(書きながら読まないと理解が進まないので、ひたすらアナログでメモ)、そしてまとめる(まとめはデジタル、ワードで文章化)。あとは、話すようにしてアウトプットしながら関連付けを行い、その中でそれぞれの情報を切り貼りしていく。そんなイメージである。文献情報はRefWorlsというオンラインの文献管理システムが便利で、インポートしては保存している。

やっていて気づくのは、文献のアクセスが「簡単だなぁ」ということだ。関東圏にいると、資料がある図書館にもすぐに足を運べるし、複写依頼もできる。オープンアクセスの論文も多くなっていて、オンラインですぐに読める情報も多くなっている。一方で、文献情報をちゃんと読んで精査していかないと、原典を当たらずに引用する、みたいなことが起こる。情報の扱い方に対しては、手順が簡単になった分、慎重さが自分に足りなくなっているなと思う。活用場面は簡単にはならない。

また、自分の学び方の整理のためにこうして手順や留意点を書いているけれど、なかなか研究の動向を知るというのは難しいことで、論文や雑誌記事を検索して一つのテーマについて網羅することの大変さを思い知る。一日でできる作業ではないので、複数日に渡って作業をくり返すことになるが、どうも飽きっぽかったり忘れやすかったりする自分は、作業の途中で別な関心毎に移ってしまい、まとまった成果を創り上げられていない。ここが課題だ。

同時に、これまで自分が発信してきたことの無知さ加減を知ると、「あああ」という気持ちにもなる。学部生がどこまで研究のノウハウを学べるかは疑問だけれど、教育学を専門に学んでこなかった私は、国語教育分野で研究をすることにコンプレックスがある。だからこそ学ぼうという気持ちが強いので、それは強みでもあるのだけれど、こんなことも知らなかった自分を知る度に、学び直せる機会に恵まれた喜びと、何も知らずにえらそうなことを言っていた自分の恥ずかしさを両方感じるのである。

思考を促すことばの提示

充実した学習記録の記述はどのように生まれるのか。

そのヒントとして、学習の手引きを読む。

 手引きの特徴として、思考を促す具体的な言葉がある。たとえば、初発の感想で共感したことを考えさせたければ、「そうだ、ほんとに」「まったく、そのとおり」「そう、そんな感じ」…などと、思考過程で子どもたちが使いそうな表現を提示する。その表現をもとに、子どもたちは自分と対話することになる。これらの言葉が子どもたちの実感に近い表現であればあるほど、思考を言語化する手立てになるのだろうな、と思う。

アランフェス

 東京オペラシティ

フィリピンフィル。

3階席1000円。

アランフェス協奏曲。

 

 モバイルを持たなくなってすっかり時代遅れの人間。

移動中に読んだ本。

伏線の女王。

かがみの孤城

かがみの孤城

 

目をつぶりたくような怒りの表出。

抱く女 (新潮文庫)

抱く女 (新潮文庫)

 

少しだけ後味悪し。

困っている。

大村全集12巻より、学習記録の効果・効用のまとめ。それからノート指導実践のまとめ。そして大量に文献印刷。要領を得ていないが、時間を使ってとにかくやっていくしかない。「しかない」と言っている時点で、思考停止している自分に気づいている。だいぶわかってきたと思うけれど、それでもやっぱり研究論文の書き方がわからない。

「そもそも…」に立ち戻る。

修士論文中間発表会が終了。

発表内容としては、これまでの記述分析の結果と考察、章立ての報告だった。自分でも課題だと感じていた研究としての位置づけが十分に言語化できておらず、今一度「学習記録」の意義を問い直すことが必要だとわかった。学習方法としての記録を書く価値、実践としての学習記録の価値を言語化していこうと思う。

そのためには、類似の方法との違いも明らかにすることが必要で、先行実践の交通整備がやはり必要な作業となってくる。また、実践と研究の違いも意識することが必要で、まだまだ論文を読むことが必要であることを思い知る。