放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

次のことを考え続ける

昨日と今日はほぼ2日間まるまる資料作成で過ごす。4月から始まった記述分析の視点は、5つの単元の授業分析の視点を得ることとなった。どの授業も反省しないことはないわけで、ジャッジを下ろさずに認識を記述していくことが最も困難なことだった。極端にネガティブに振り切ってしまうことがあると自分のいたらなさを直視できず、書くことが苦しくなるのだけれど、そんな中でも淡々と次のことを考え続けることが必要だな、とここ数日学ぶ。

小手先だけの分析になっていないか?

これまで試論として取り組んできた記述分析を、一つの枠組みに沿って可視化する作業を行っている。記述を数値化して表やグラフにすると、今まで見えなかった事実が浮き上がってくる。

しかし、このデータは仮想世界のもの。私たちは授業分析をしようとしたとき、実際の授業の場から離れて、記述を行わなければならない。実際の授業とあまりにも乖離した分析になってしまうことも考えられる。

新たなことがさまざまに見えてくるのはおもしろいけれど、小手先だけで見えるようになったことで満足していてはダメであろう。データは考察のための材料である。いかにここから認識を深められるだろうか。私自身の一番の課題である。

ざっくりと1年間の学習記録を読んでみた。

引き続き、これまでの調査結果をまとめた中間発表の資料を作成した。

と同時に、新たな調査も進めていく。先週末にデータ化した抽出生徒の1年間の記録である(計画では3年間分見る予定が、資料が見つからなかったりして後回しになりつつある…)。

これまでに記述内容の枠組みを作ってみたおかげで、どんな授業でどんな内容が書かれているのか分類することができる。

keynote.hatenablog.jp

keynote.hatenablog.jp

具体的に表現することができるか。

記述内容を見る限り、これまでの枠組みと齟齬を感じるものは見当たらなかった。一方で気になってくるのは、具体的記述がなされているかどうかである。

私の授業では、「~した」「~わかった」といった記録が多く見られるのだが、やはりこれだけでは具体的にどのような学習過程で、どんなことが新しく知ったことなのかわからない。この辺り、もう少しフィードバックできたらよかったなぁ、自分の授業で意識できたらよかったなぁ、と思うのだが、実際に、何人かの生徒の記録には取り立てて指導はしていないものの、具体的に表現する傾向の記録がある。

どのような具体的表現が記録に見られるかというと、

・テストなど評価場面での自分の行動パターン

・今後の学習で意識していきたいこと

・創作物などの価値

・学習過程のモニタリング

・発表場面の自己評価

・文学的文章を読んだ後の作品の分析 など

で見られた。これは抽出生徒の一例なので、なんとも言えないのだが、自分に矢印が向いている記述が多い気がする。

授業後に感想を書くだけでは振り返りにならない。

もう一つは、振り返りの機能である。私は毎時間の授業で必ず学びを実感するとは思っていない。導入期はこれからどんな目的で、どんな活動をするのか見通しを持つために、説明を聞くだけの授業となることもある。ただ、単元の終末にはどんなことが学びとして得られたのか言語化することが大切だと思っている。

その点で言うと、自分の授業ではゴールイメージが曖昧で、毎時間の授業が知識伝達に重きが置かれ、単元を通してつけたい力が授業づくりに活きていない。テストに追われていたりして、なかなか学びを振り返る時間を持てていないのかも…と思う。毎時間の記録を書くことだけが振り返りではないのだなぁと改めて思う。

 

なんにしても、一人の生徒をざっくりと読んだだけなのでまとまったことは言えないが、学習者の年間を通した記録は、遠く離れてしまった過去の授業と向きあわせてくれる。自分の思考の癖を見直して、リセットするために必要な作業だなとつくづく思う。

 

学習の収束とは、何をすることなのか?

来週に迫っている中間発表会に向けて、ひたすら収束の作業。今日はこれまでのブログの記述を関連付けする作業。いわば凝縮ポートフォリオ作成に近い。

ただ、研究としての論文は、自己満足で作品を集めるだけではないので、わかってもらえるように題材を選び直したり、因果関係を具体的に記述したりする。実際の授業で問題となることをもう一度捉え直す思考も必要。

調査・分析している時は、無邪気に自分の疑問を泳がせて新しい発見にワクワクしながら進めることができるのだけれど、収束の作業は慎重さが必要で、性格的に難しい作業だなと思う(笑)。いや、程度の差はあれ、毎日の記録だって、思慮深さが必要なんだけど。

 

学期末のあとがきを書く作業もこんな感じなんだろうなと思う。自分で学びを拾い直す、すごく大切な時間だと思うから、時間いっぱい丁寧にやりたいと思う。

意欲と並行して付き合ってくれたら嬉しいんだけどな。体調さん、お願い。

分けられないことがある

 ちょっと寄り道。授業研究のストーリーを読みたくて以下の本を手に取る。

日本の授業研究〈上巻〉授業研究の歴史と教師教育

日本の授業研究〈上巻〉授業研究の歴史と教師教育

 

 この中で気になったのは平野婦美子『女教師の記録』だ。教師がどのような生活をして、どのような見方や考え方を獲得していったのかに興味がある。大村はまの伝記もおもしろいと思って、2014年にすごくはまって読んだ記憶がある。

女教師の記録 (1980年) (ほるぷ自伝選集―女性の自画像〈5〉)

女教師の記録 (1980年) (ほるぷ自伝選集―女性の自画像〈5〉)

 

 「生活を投げうって」という表現に出会うのだけれど、自己犠牲の精神ではなく、思考は仕事も生活も関係なく、一人の人間の中でずうっと続いているものだって思う。

書くことによって認識が深くなるってどういうことか

 記録を書くことと考えることはどういう関係にあるのだろうか。授業の記録を書いている時に、学習者は何を考え、どのような気づきを得るのだろうか。書いている時の思考過程が気になって以下の本を手にする。

子どもの文章―書くこと考えること (シリーズ人間の発達)

子どもの文章―書くこと考えること (シリーズ人間の発達)

 

 この本を読みながら、自分がブログを書くようになってから「実感」することを思い出す。その日の出来事や発見を一つのトピックとしてまとめて投稿する。その際に、最初に書こうと思っていた話題と話がズレていくことが多い。タイトルを先につけて書き始めたのに、いざ書いた文章を読むと、全然違う話題になっている。やはり書いていて気づくことはたくさんある。自分がこだわっていたり気にしていることは何度も繰り返され、具体的な事例や感情が含まれて書かれていく。書いている途中で、結局そうは言えないなと気がついたり、何が言いたいのかわからなくなったりもする。書くことで考えるというのは、そうなんだろうなと思う。

しかし、本当に書くことは認識を深めるのだろうか。この本では心理学のさまざまな研究を紹介しながら、実際の作文の推敲過程を追跡している。

そうかぁ、と思ったのは、「書く以前はみえなかったことが因果的に関係づけられてみえるようになったということに伴う主観的体験」という表現。

学習をしながら、まだ気づいていないこと、具体的表現がみつからないことが、ことばにすることによって安定し、自覚化される。体験や活動を通して、何か学びを見つけようとする中で、ことばにする機会が新たな見方や考え方を生成する、ということなのか。

実践を整理するための観点と授業づくりで大切にしたいこと

今日は現実的な作業の1日。

10月3日の修士論文中間発表に向けて、これまでの調査のまとめを作り始める。今月上旬に一度作ったプロットとは違った見方が出て来ている。いろいろな疑問点をまとめていくと、学習記録をめぐって「①目的②内容③機能④形態⑤方法⑥評価」の観点で整理するのがよいのかなと思う。この捉える視点は、ノート指導や記述分析の先行研究を追っかけて得た成果である。

日が沈み、思考が停滞してからは、単純作業に移行。3年間の学習内容をエクセルの表にまとめる。1時間で達成できる課題、その課題がその時間内で完結してしまうことを記録からひしひしと感じながら、こうなってしまうのは、授業が始まる前にどんな目的でどんなプロセスを描くか、その思考や判断ができないからなんだよな、と思う。教師がガチガチに活動を規定することに抵抗感もありながら、子どもたちには力をつけてほしいと思うし、新しい知識も獲得してほしいとも思う。

この後、自分が教室に戻った時に、何を大切にして授業を運営していくか、切実な問題である。