放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

自分自身の実践への評価

学習記録のラベリングをする。

すべてのラベルを貼り終わって「ああ、こんな授業もしていたんだな」と、やはり思い出す。子どもたちもこんな感じなんだろうか。人は忘れていく生き物だ。記録がなければ、なくなってしまう。書き残すこと。それは、未来の自分に対しての贈り物なのだ。
今一度、「『記録』の価値を問い直せ」と思う。

 

疑問に思ったことは、「これは、自己満足で終わらないか」ということだ。ラベリングをすべて終わった瞬間、ある種の達成感がある。全てのプリントの束を見て、重さを感じて、自分はこれだけのものを残した、という満足感が残る。その「感」だけで、いいのだろうか。いや、「感」だけでは「学習」記録とは言えないのだろう。

もちろん、学習に対する自分への肯定感を大切にしたい。自分への肯定感を養うことも学習記録作りの目的の1つだろう。しかし、学んだことの言語化こそが最も重視されるべきだと私は思う。記録は活動であって、本質は学習にあると思う。学びを自分のものにするために学習記録はあると思う。

 

その点から考えていくと、私が生徒にさせていることは、ただの活動にすぎないのだと思う。「学習」としては、機能していない。本質をもっと提示し、語らねばならないのだろう。

1年間の授業資料を綴じる。

 


気付いたこと
1.10月以降の資料が充実している。つまり、学校祭以降は自分の授業が言語活動(主に作文)に比重が移っていったということか。
2.子どもたちの学習記録はノート+テスト類が入るので、これとはまた別種のものだなぁ。
3.綴じるだけでも大変…。ここから学びの言語化って、なかなか学びの体力がいる作業だよな。途中で挫折しちゃう。
4.記録(ポートフォリオ)は見返してこそ、価値がある。見返すことが大事。