放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

他者との共有から変容を促す。

最近、授業参観をしていて「共有」がどのように位置付けられているか気になっている。

 

さまざまな学習記録を見るようになって、学びの共有や振り返りの共有について注目するようになった

きっかけは大村はま昭和47年から同50年までの3年間の学習記録からである。

 

大村はま全集第12巻を読み直していて、学習記録の変化は2点あることがわかった。

 

1つは、目次の作り方の変化だ。驚くことに(?)昭和47年1年生の1学期、つまりその学年の生徒にとっては初めての学習記録作成後、その学習記録に関する学習記録をさらに作成している。そこで他の人の学習記録の目次を共有し、そこから目次の分類の仕方や構成、題の付け方を学んでいる。3年間の目次を並べるとよくわかるが、経験を積むごとにどこでどんな学習をしたのかよく整理されているものになっていく。

 

2つ目は、授業時間内に書かれるメモである。昭和48年2年生の最初の授業で大村はまは「一段と高く目ざして」というプリント資料で授業びらきをしている。その後の記録をまとめ、プリントして配付することを3回続けた。すると、友だちの記録が刺激となって、授業時間内で細かな注意や指示をメモすることが共有されるようになった。実際の学習記録を見ても、この学期から生徒自身の記述による記録の量が増えている。教師が言ったことだけでなく、授業過程の記述も増え、活動中にうまくいったこととうまくいかなかったことの記録なども見られるようになる。

 

このように記録を見ていくと、他者との共有(書いたものの共有、話すことでの共有など)が学習者の変容を促していることがわかる。

 

もちろんただ単にコピーをして渡すだけではなく、一覧化して見られるような資料にするとか、教師から観点を示すとか、何らかの支援が必要だろう。しかし、共に学ぶ学習者の良いところを吸収していく経験は、学校の外に出た時に、どれだけ貴重な能力になるだろうか、と私は思う。学習者同士の学びの共有の価値を改めて考えている。