放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

つくばエクスプレスから

昨日は朝から調子が乗らなくて、本も読めず、新しい思考も生まれず、図書館で堂々巡りの時間を過ごした。

 

それでも夜は映画を観に行けるあたり、ちゃっかりしているな、自分、と思う。

最果タヒ原作の「夜空はいつでも最高密度の青色だ」。

 

www.yozora-movie.com

 

イーアスつくばで見終わった帰りに、研究学園駅のマンションの灯りの数が目に入る。

少し出ると田んぼが広がっている。かすかにかえるの鳴き声が聞こえるのに、こんな風景もあるのだな、と思う。

夜はかえるの鳴き声でいっぱいになる村が懐かしくなる。

 

今日は浦和。

研究会情報 – 大村はま記念国語教育の会

【つまみ食い読書】これはおもしろい!『イギリス教育の未来を拓く小学校「限界なき学びの創造」プロジェクト』

 今週は

  • 過去の授業実践分析を読む
  • これから自分がやってみたい指導案を考える
  • 大学入試問題の試案にチャレンジする

といった大学院の課題を中心に生活していました。そのためあまり読書はできませんできた。でも朝読書の時間でもある「15分」だけでも読もうと次の本を読みました。

イギリス教育の未来を拓く小学校 「限界なき学びの創造」プロジェクト

イギリス教育の未来を拓く小学校 「限界なき学びの創造」プロジェクト

  • 作者: マンディスワン,アリソンピーコック,スーザンハート,メリージェーンドラモンド,藤森裕治,新井浅浩,藤森千尋
  • 出版社/メーカー: 大修館書店
  • 発売日: 2015/07/01
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

 興味を持ったのは、やはり「第3章 学びの自由を広げる~子どもたちに自分の学びを評価させる」です。

 

 読む前の実感として、「自分の学びを評価する」って一筋縄ではいかないぞ、という思いがありました。メタ認知能力の差が顕著に表れるし、そもそも評価の語彙を持っていないということもあります。

 そんな中で読んでみてわかったことは以下の5点です。

  1. ブラック/ウィリアム『ブラックボックスの中(Inside the Black Box)』(1998)が自己評価による子どもたちの学びの強化において重大であることを主張していること。ブラックボックス」というキーワードは何度か耳にしたことがあったのですが、感覚的にですが、このあたりも検討すべき領域なのかなと思いました。
  2. ノートは記録だけではなく、進捗状況や到達度理解に用いられること。8年間の中でノートに対する認識は大きく変わったなと思っています。初任時は、「視写」→「板書」→「メモ」程度。学習記録を知ってからは、「学習内容」→「板書(たまに視写)」→「メモ」→「自己評価」または「ふり返り(進捗状況や充実度)」。
  3. さらに、自己肯定感を高めるツールとなっていること。教師の価値観の提示にも左右されます。過度に自己評価の低い子どもには先生が「本当にそうだろうか」と促す場面も必要かと思います。評価の中で「うまくいかなかったな」という場面でも、そこで落ち込むだけではなく「どうしたらよかったのだろうか」と思考を促す場面が次のチャレンジにつながります。
  4. 共有された学習言語により教師と子どもがパートナーシップを持って授業が展開していくこと。「ここがよくわからない」こういう振り返りは次の授業を創造していきます。子どもたちの評価が授業を作る鍵となること、授業は教師と子どもで作るということを改めて感じます。その際に必要なのは、やはり学習言語なのか……。
  5. 集団での相対化の深さが自己評価の質に影響を与えること。大村はま実践を読んでいてもわかるのですが、全員の作文を一覧化して通読してみると、どの作文が良いか、子どもたちは大体見る目を持って読みます。言語感覚というのでしょうか。全員がわからなくても、どの作文がどのように良いのか誰かが語ればいいわけです。すると「なるほどな」と共有されていきます。その「なるほどな」という学びが深い実感を伴っているほど、自己評価の言語化は進むのだろうなと思います。経験知ですけれど、私はそう思います。……うーん。この辺は、まだうまく説明できてないですね。

 結局、最後に自分の学びとして自分の中に残すかどうかは自分が決めるのであって、教師がどんなに叡智を尽くしても、未来に拓く学びは子どもたち自身の中にあるのだと思います。

 

今日はここまで。つまみ食いでした。

新聞から学ぶこと。

 人生相談

母と同世代の女性に片思い=回答者・高橋源一郎

https://mainichi.jp/articles/20170529/ddm/013/070/006000c

 

ふふふ。今日はいきなり何を書くのかとお思いでしょうか。

いや、人生相談とか、そういうものに私は答えがないと思っているし、

結局はその人自身が決めることなので、私はあまり読まないですよ。

ただ、人の価値観がとても表れるいい素材なのですね。

自分ならどう答えるかなとか、答えを見て「うーんそれはどうかな」とか。

きっと回答者も、掲載される媒体の読者層に合わせて答えを考えるんだろうなとか、

いろいろ考えるとおもしろいのです。

 

私はテレビを持たない人間で、ニュースはネットが主でした。

だからこそ今新聞がおもしろいと感じるのかもしれません。

この春から紙媒体で新聞を読む余裕ができて、

しかも1紙だけではなく複数誌をその日に買って読むようになりました。

 

読むようになって気づいた良い事を3つにまとめます。

  • 紙面を広げると自分のアンテナの位置がわかる。

 職業柄、大体は教育に最も関心が高いですけれど、社会のさまざまなことがどのように自分の生活や子どもたちの生活に影響が出るか、ということを考えます。いつもは考えないような問題とも出会いますから、発想を広げることもできます。新しいことばにも出会うことができます。

  • 批判的に考える力を意識できる。

 やはり、編集されたメディアですから、書いてあること以外にどんなことがありえるのか考えます。何を取捨選択して書かれているのか、そういうことを考えながら読むことがおもしろいです。私は単純細胞な面があって、書いてあることをそのまま鵜呑みにしやすいです。コンビニでも「人気ナンバーワン」とかに弱いのです(笑)。新聞から視野を広げる訓練は、結構自分にとって必要な力なのではないか思っています。

  • 情報を取捨選択できる。

 いわゆる情報過多に対する問題意識です。SNS時代、自分の知りたい情報も、どうでもいい情報も、自分が許容できる以上に情報が入ってきます。そのため、一つのことをじっくり考える間もなく、次の情報に飛びつくことがあります。
 数日前にリツイートした記事のことを、忘れてしまっている現象が自分に起きていることを自覚しています。一見、一つ目と矛盾するかもしれませんが、本当に自分にとって欲している情報を得るのに、私は新聞が一番適していると思うのです。よく考えたいことは赤を入れたり、コピーを取っておいたり。でも、基本的には、読み終わったら処分してしまうのです。これは、「自分で」情報をコントロールするので、ストレスがかかりません。

 

 さて、新聞社のまわしものみたいに書いてきましたが、決してそんなことはありませんのでご安心を(笑)。

 ただ、生きてはたらく力を育てるとか、社会と関わって生きるとかいうことを考えていると、新聞が必要なメディアなのではないかと思うのです。しばらくは新聞と向き合って、教材化にも役立てていきたいですね。

 

 

 さて、最後に内田樹の本を紹介しておきます。きっかけは「文化資本主義」の考察を読みたくて読み始めましたが、さかじゅん(洒井順子)の「負け犬の遠吠え」に関する内田氏の見方がおもしろく、今日の1冊に選びました。

 

街場の現代思想 (文春文庫)

街場の現代思想 (文春文庫)

 

 

学びの出発点は、わたし。

「わたし」「わたし」「わたし」・・・というと、自己中心の考えが渦巻いている感じがしますか・・・。

 

けれども、本当に「わたし」と向き合って、「わたし」を開いている人というのは、

自然とほしいものが入ってくる、と思います。

 

本を読むことは、他者の何かをことばを通して知ろうとすることだと私は思っていますが、

結局そこから何を知るかは「わたし」次第です。

どのように理解するかも「わたし」次第です。

結局、「わたし」がどのようなことに問題意識を持っていて、

どんなことに切実さを感じているのか。

それこそが、何かを知るために必要なことなんだな、と思います。

 

先週からずっと25年間を思い続けている。

 

花の匂い

花の匂い

  • provided courtesy of iTunes

 

https://itun.es/jp/cQHvjb?i=1230380069

 

人と語らい、人に甘える。

前日から内留生の方や尊敬する先生たちと夕食をともにする。

当日も同期の子と7分科会の資料を目に通しながらさまざまな研究の一端に触れた。

ぜひ、いらしてください、とあたらしい学びの場もひらけた。

 

午後は久しぶりの岩手大学キャンパスで、蓮の池を見て懐かしんだ。

お昼はお弁当を頼んでいて、中央の学食で

初めてお会いしたけれど、近い研究分野の同年代の方と語り合い、

話したいことを気兼ねなく話せることは幸せなことなんだなと思う。

 

夜は日が変わるまで、「わたしはなにがしたいのか」「30年で世界を変えたい」という馬鹿な悩みに耳を傾けてくださったこと(昨日は少しだけお酒も入っていた)ただそれだけなのに、大学という新たな環境にきてよかったと思う夜だった。

 

でも甘えすぎてはいけない。

ひとり立ちしてはじめての学習者である。

 

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岩手大学

開運橋。北上川岩手山。菜園。大通り。映画館通り。

 

今日から全国大学国語教育学会岩手大会である。

 

どれも懐かしい、わたしの大学生活の一部。

孤独だった大学4年間。

アルバイトと生活と教員採用試験がほとんどの割合を占めた大学生活。

教育学に目覚めたのは大学3年の冬で、少し遅かったのだと思う。

それが今の学びへのこんぷれっくすになっていて、

働いてからのほうが時間がないのに本が読みたいという欲求が大きくなった。

 

学部時代の先生にはご挨拶もせず、大変不義理を働いている。

落語を見に行ったり、韓国人留学生との交流があったり、

私ひとりのゼミだったにも関わらず気にかけてくださっていた。

今もそうだが、私は何がしたいのかがよくわからない。

そのような私を相手に言いたいこともたくさんあっただろうなと思うが、

いつも学生を尊重してくださって、私は教員採用試験にも集中できる環境だった。

 

今、教育研究の院生として筑波大学にいること、どのように思われるだろうか。

今回の学会が終わったら、ご挨拶しないといけない。

 

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説明が長い、から考える授業へ。

初任時の授業を振り返ってみた。

 

ありがたいことに、私には拠点校指導の先生が週に1度のペースで私の授業を参観に来られた。

校務分掌のこと、生徒指導のこと、授業のこと、困っていることを聞いてもらいアドバイスをもらえた。

特に自分のためになったと思うことは、客観的に授業を観察して言語化してくださっていたことだ。

 

国語科専門の先生ではなかったけれども、「課題が明らかになっていない」「説明が長い」「生徒の活動を増やす工夫があるとよい」といった記述が目立つ。

1年目に終わってみて気づくのだが、私の国語科授業はスキル説明の授業であり、体験させたり、理解を深めたりする活動が少なかったと思っている。

とにかく、説明・指示・発問が典型的な授業だった。

それで1時間を「もたせる」感があって、テンポもいまいち、まったりする生徒の様子が見られている。

教師があらかじめ用意した解答にいかに気づいてもらうか、そういう授業だったと思う。

言語技術の意識みたいなものはあって、例えば短歌のこの時間では「句切れ」を扱おうとかいう意識はあるが、「句切れ」とはそもそも何か、どうして存在するのか、これを生徒が知ることによってどのような知識の広がりがあるのか、短歌を読む上でなにが重要なのか、そういった問いが自分の中になかったような気がする。

あったとしても、明日の授業の発問を考えることで精一杯で、何かの本質を突き詰めるという暇は私にはなかったのだと思う。

定期テストや成績提出など、締め切り仕事もあるとなれば、より一層、思考は日常の中で埋没していった。

1時間授業することに不安で、ワークシートも作っていた。ワークシートにハマる罠にまんまと引っかかるのである(その中のワークシートで昨年も使っていたものはない)。

 

とにかく、思い切って活動させたり、体験させたり、ということができなかった。それだけの時間を費やして学習の質を保てるほどの技量も思考もなかった。

 

今は「これ」と決めたら、とことん繰り返し、2段階くらいでレベルを変えて体験するくらいのことはできると思っている。それから、生徒の反応をよく見られるようになってきて、生徒に聞きながら発問や活動を変えることもある。柔軟性が出てきたと思う。

 

それでもやはり、言語事項の授業は教えることが明確で、説明・指示・発問を基本とした授業は自分にとってやりやすい授業だった。たぶん、多くの人がそうだと思う。それで、うんと読む授業よりも、言語事項を扱う割合が多いカリキュラムになる。

 

でも、それではいかんのだ。

16日に発表された大学入学共通テスト(仮称)の問題が授業でも課題となっていて、改めて思う。

 

大学入学共通テスト(仮称)の国語、数学の問題と解答


これは授業のあり方を考えるための一つの材料にすぎないけれど、この問題とまじめに向き合えば、授業の問いの質も変ってくるだろう。少なくとも、一問一答だけではすまされないことはわかっている。

同じようなことが、PISAの問題や全国学力学習調査のB問題を読んだ時に感じたものだったと思うが、どれだけ授業に反映されてきただろうか。

 

やはりもう一度立ち止まって考えてみなければならないと思う。