放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

記述の視野の広がり

  今日はある生徒の記述から。

 

 一年間の国語の授業を通して、たくさんのことを学び、身につけてきました。授業の内容は、漢字や辞書引きを毎日少しずつやり、教科書をすすめることの繰り返しでした。本を読んでくれることもありました。最初は、漢字、辞書引き、読み聞かせ、に時間を使いすぎだと思っていましたが、そのおかげで漢字が書けるようになり、辞書を引くのが早くなり、考え方も広がりました。とてもバランスのいい授業だったと今は思っています。

 

 この授業感想文を読んで自分の授業がどのように受け止められているのか、言葉の端々からよく伝わってくる。授業者としては授業構成に関する反省がめきめきと沸いてくるのだが、そういった個人的な反省の念は置いといて、ここで取り上げたいのは生徒が授業構成について言及している点である。

 学習記録あとがきでは、その学期を振り返って自分が頑張ったこと、印象に残ったことなどを書く。自分はどうだったか?という視点で書かれることが多い。

 ところが、授業に関する記述を重ねていくと、授業に対しての考えが表れるようになる。私は授業内容や展開を構成する者=教師という見方で「授業者」と言ったけれど、授業の選択は学習者とのやり取りで変更する余地がある。こうでなければいけないという学び方はないわけで、学習者が他の学び方の可能性を検討する思考があるのは当然のことである。むしろその思考が働くような学習者でなければ、自立した学び手となることはできないだろう。

 どのような過程で、どのようなことが起こり、その結果どんなことが言えるのか、何度も何度も記述していく。その繰り返しの中で、自分の学びのあり方を自覚的にとらえられるようになってくると、それは一人前の学習者と言えるのかもしれない。

学びを名付ける

今日は過去3年間の学習記録のデータベースづくりを終える。

表紙の条件設定、題名の考え方、生徒の国語科授業への意識、作業に適応/不適応する生徒の特質 など、改めて記録に目を通しながら気づくことがある。

学習記録の題名には、こちらがはっとさせられるような語句の選択がある。子どもたちは辞書とにらめっこして様々に思案するわけだが、題名を通して生徒の想いを知ることも少なくない。

授業記録と教師の言動

毎時間の授業記録の実践を読んでいくと、その記録を筆者自身のリフレクションとして重視される場合と、授業者の授業分析の視点に重点がおかれている場合が見られる。どちらの視点もそれぞれに重要だと思うが、教師が生徒の記録を読む行為においては後者が重視されるように思う。

では、実際に教師が生徒の授業記録を読む時にどのような視点で読んでいくことが大切なのであろうか。生徒の記述には教師との人間関係を考慮する前提が含まれるのであり、教師への気遣いがある生徒ならば余計に否定的なことは書かないだろう。

一方で、この記録が授業をよくするためのものであるとしたら、生徒の否定的な記述も改善を促すものとして歓迎される。「先生も完璧な授業をできるわけではないです。みなさんとよりよい授業をしていきたいと思っているので、もっとこうなったらいいなと思うことを書いてくれると嬉しいです」このような発言を言うのと言わないのとでは、書かれる内容も変わってくるだろう。

何をどのように書くか、教師の発言一つで集団の意識は大きく変わる。生徒の記述分析において、教師の言動がどのようなものであるかを考慮することは大事な視点である。

書かれていることをどこまで信用するか

生徒が書いたものを分析する際に、どの程度その言葉は生徒の本心を表しているのか、という問いを必ず受ける。教室で書かれるものは、教師や級友に読まれることを前提として書かれることが多く、その前提を踏まえて読まなければならない。ただ問題としたいのは、「その授業で書かれたもの」という事実である。本心かどうかは別として、授業で生徒がどのような表現をしたのかということは分析することができるだろう。そこには生徒の選択意志が働いている。

他者に開いている記録を

教室で学習記録を作っている時に迷ったことは、個人の学習記録をどこまでオープンにするかということだった。

学校では個人に対する評価が行われる。学習記録には授業で扱ったすべての資料を綴じることにしている。その中にはもちろん、具体的な評価結果が示されている資料がある。その資料を、自分以外の誰かに見られてもいいかという問題だ。

作文やスピーチの評価用紙は良かったポイントや課題となることが書かれるので、他人の評価用紙を見ていると参考になることがある。一方で、はっきりと数値が示されているテストなど、個人の情報として保管すべき物もある。

学習記録を個人の記録として重視するか、他者と共有できる記録として重視するか。学習記録のすてきなところは、とりあえず、授業で扱った資料や自分で作成したものを蓄積しておき、時間が経過してから自分の足跡としてたどれる点だ。学びの実感はその時には気づかないことも多くあり、もう一度振り返ることは大切だ。一旦記録として残しておくことで、もう一度学び直す機会を作ることができる。記録がなければ、時間が経つのと同時に忘れてしまうものである。

ここまでの目的であれば、個人の資料として扱い、他者が閲覧できなくてもいいのかもしれない。しかし、他者に見てもらう機会をつくることにも価値はある。他人の記述を見て学ぶという経験は多くの人にあるだろう。他人の目を獲得することで自分自身を照射することにもなるだろう。他者からの学びの方が自分の考えを大きく変えるかもしれないのだ。いつでもどこでも閲覧可能な記録は、個人の学びをさらに広げる可能性がある。私は、そのように他者に開いている学び手になりたいとも思う。

ここまで考えると、そもそも教室で学習者が手にする学びの質が記録のあり方に影響するのではないか、と考えるようになる。他者の意見を知ることで学びが豊かになる経験をしたものは、学びを他者に開くことに抵抗を感じないのではないか。一方で、他者と比較して優劣がつけられるような学びであれば、記録を開くことに抵抗を感じるのではないか。

学校で学ぶ、教室で学ぶ、と言ったときの学びのあり方が記録のあり方と確かにつながっていることがわかる。

1日を終える

今日はずっと原稿作りやその他事務的な仕事ばかり。自分の論文の準備は進まず。定例の進捗報告会は継続中。仲間も頑張っている。劇的なことは何もなく、淡々と少し肌寒い3月が過ぎていった。